(1 ) 以下、この考察作業の全てに関して、私は、簡明化のために、金を貨幣商品であると決めて置く。
(2 ) 貨幣の主要な機能の第一は、商品に対して、それらの価値を表現する材料を供することである。または、それらの価値の大きさを同じ単位で表す材料を供することである。質的に同等で、量的にも比較可能な材料を供することである。それは、そのように、価値の世界尺度としての役目を果たす。ただ一つ、この機能があるゆえに、金、卓越した標準性をもつ等価商品は、貨幣となる。(文字の色が変わっているところは、英文ではイタリックで強調されている。訳者注)
(3 ) 貨幣が、商品を、同一基準で計量できるものとするのではない。逆である。全ての商品は、価値として、人間の労働を現わしている。だからこそ、同一基準で計量することができるものなのである。それらの価値は、一つのそして同じ特別の商品によって計ることができる。その特別の商品は、それらの価値の共通的尺度に変換される。すなわち、貨幣に変換される。*
疑問−なぜ貨幣は直接的に労働時間を表さないのか、紙幣がすんなりと、例えば、x 時間の労働をと表せないのか。
上の二行は、本文のここの所 * に入れられた本文注の書き出し部分なのである。ここはこの注を抜きにはできないと訳者が敢えて入れることにしたのである。本文注の続きに入る前に、訳者の余談、例によってである。
訳者も、人間の労働が価値であるなら、そしてその労働時間が価値の大きさであるなら、貨幣が、時間貨幣であってもいいのではないかと、なんとなくそんな気に。が、マルクスは一刀両断に次のように書いている。はたと目を覚まされる。
その疑問は、なぜ商品の生産がそこに存在するのか、なぜ生産物は商品の形式を取らねばならないのか? という根底の質問と同じものである。商品の形式を取ったのであれば、すなわち、商品と貨幣を識別したのである。これがその証拠である。または、なぜ、私的な労働−私的個人のための労働−が、その対極的ともいうべき社会的労働として直接扱われることができないのか?と云うのと同じ質問なのである。「労働貨幣」を、商品生産を基礎とする社会に持ち込むというユートピア的な発想には、私は、別のところで、徹底的に論及している。この点について、一言だけ付け加えておこう。例えば、オーウエンの労働貨幣であるが、これは劇場の切符なみである。オーウエンは、生産の形式として、直接的協働労働を前提にしてはいるが、商品の生産と全く同じなのである。その労働証明書は、協働労働内の個人分の単なる証拠であって、消費に割り当てられる産物のある割合の権利に対する同様な証拠でしかない。彼の頭では、商品の生産を前提としながら、同時に貨幣を弄び、生産に必要な条件を避けようとしていることがどこまでも分からないのである。
マルクスも、ロビンソンの話(第一章)に次いで、協働労働の話を書いている。家長制労働と、別の社会のそれを思い出すであろう。だから、社会関係をそのままにしての、部分的協働労働とその部分的貨幣などは、空想以外のなにものでもないと、はっきり示しているのである。ちょっと解説的な余談になってしまい申し訳ない。
(4 ) 金による、商品の価値の表現−
x量の商品A = y量の貨幣商品− は、その貨幣形式またはその価格である。次のような単行等式 1トンの鉄 = 2オンスの金 は、今や、社会的に正当なる方法で、鉄の価値を表現するに十分足りる。もはや、この等式を明確化するための他の全ての商品の価値を表す多数行の等式はいらない。なぜなら、等価商品 金は、いまや貨幣の性格を持っている。一般的な相対的価値形式は、それ自身の最初の形で、単純な、または個別の相対価値形式を改めて取得する。一方、拡大された相対的価値形式、終りのない等式の連結群は、いまや、貨幣商品の価値に対する奇妙な形式となった。その連鎖は、ここにすでに現実の商品の価格で社会的認識を与えられているし、持っている。我々はただ、価格表の字面を逆に読めばいいだけである。そうすれば、全ての種類の商品で表されている貨幣の価値の大きさを見つけることができる。とはいえ、貨幣自身は価格を持っていない。そのため、これを他の全ての商品と同位置に置くには、我々は、それを、それ自身の等価と同じとすることを余儀なくされる。
(5 ) 商品の価格または貨幣形式は、商品の一般的な価値形式と同様、明白な物体的形からは全く別の形式である。であるから、それは、純粋な観念または心象形式である。見えはしないが、鉄、リネン、トウモロコシの価値は、これらの確かな品物の中に現実に存在している。それらが金と等価であることによって、観念的に認知することができる。つまり、それらの頭の中に存在している。従って、それらの所有者は、それらの価格が外の世界に通知されることができるように、前もって、彼の舌をそれらに貸してやるか、それらに、正札をぶら下げるかしなければならない。金による商品の価値の表現が単なる観念的な行為となって以来、我々は、その目的のために、想像上のまたは観念的な貨幣を使ってもなんら差し支えがなくなった。どの商売人も、彼等の価値を価格または想像上の貨幣で表す時、彼の物を金に変えることなどという考えは全くないということを知っている。また、何百万ポンドの価値がある物をこの金属で概算する場合でも、ほんの少しの金の直物も求められないことを知っている。かくのごとく、貨幣が価値の尺度を務める時に用いられるのは、想像上のまたは観念的な貨幣のみである。こう言う事から、粗暴な理論も生じた。だが、貨幣が価値の尺度機能を果たす場合はただの観念的貨幣であるとしても、価格は、実在の貨幣に全面的に依存している。鉄の価値、別の言葉でいえば、1トンの鉄に含まれる人間の労働の量は、鉄のそれと同量の労働が含まれる想像上の貨幣商品の量というもので表される。従って、価値尺度としての、金、銀、または銅に応じて、鉄の価値は、それぞれ違った価格で表されることになる。または、それらの金属のそれぞれ違った量で表されることとなる。
(6 ) 従って、もし仮に、二つの違った商品、金とか銀が、同時に価値の尺度となるならば、全ての商品は二つの価格を持つことになる。− 金価格が一つ、もう一つは銀価格である。この二つの価格は、金に対する銀の価値比が、例えば、15:1で変化なく維持されるならば、静かに並列する。この比にどんな変化でも、生じるならば、商品の金価格と銀価格間の比は混乱される。このことは、事実をもって、二重価格基準が、基準機能に矛盾することを証明する。
(7 ) 明確な価格がある商品は、それら自身を次のような形式で表示する。 a量の商品A = x量の金, b量の商品B = y量の金,
c量の商品C = z量の金, その他。ここでは、a,b,c は明確な商品 A,B,C それぞれの量を表示ずる、そして x,y,zは金の明確な量を表示する。この結果、これら商品の価値は、観念的に、多くの違った量の金に変換される。以来、商品群自身の戸惑うばかりの種類にも係わらず、それらの価値は、同じ単位の金のそれぞれの大きさとなる。今では、それらは、お互いに比較され得るし、計量され得る。そして単位尺度 金のある決まった量によって、比較しようとする欲求も技術的にはっきりしてくる。この単位は、一定分量への分割から、それ自身が基準や尺度間隔となる。金,銀や銅は、貨幣になる以前から、すでに、それらの重さの基準が基準尺度となっており、例えば、1ポンドという重さが、単位として使われ、ある時は分割してオンスとなり、別の時には、合わせて100ポンド重量となる。このようなことから、全ての金属流通で行われていたように、貨幣の基準名や、価格名に、従来からの金属の重量名称が、最初の段階では、与えられたのである。
(8 ) 価値の尺度として、また価格の基準として、貨幣は二つの極めて明確な実行機能を持っている。(文字の色が変わっているところは、英文ではイタリックで強調されている。訳者注) 価値の尺度としては、社会的に認められた人間の労働の実体そのものの如く、また、価格の基準としては、金属としての定まった重量の如く。価値の尺度として、多数の全ての商品の価値を価格に変換する役を果たし、観念上の金の量とする。また価格の基準として、それらの金の量を計量する。価値の尺度は商品を価値として計量する。価格の基準は、逆に、金の量を、金の一単位をもって計量する。ある一単位商品の金の量の価値を、他の金の重量で計量するものではない。金をして価格の基準とするためには、ある一定重量を基準単位として固定する必要がある。このことは、同じ単位基準で計量する場合全てに該当するが、不変の尺度単位の確立が必須的に重要となる。そこでさらに、様々な物に対応するために、小さい単位も主な条件となる。その方が価格の基準としての対処性も良くなる。だが、ただ、金が労働の生産物である限りのことで、従って、価値の多様性に対する適応力を備えており、金は、価値の尺度としての役割を果たすことができる。
(9 ) 第一の点は、金の価値が変わっても、価格の基準としての機能には、いささかも影響しないということである。このことは明白なことである。この価値がどのように変わったとしても、金属の様々な量の価値の比は一定を維持する。仮に金に暴落があったとしても、12オンスの金は依然として、1オンスの金の12倍の価値を持っているし、価格も変わらない、考慮されるのは、違った金の量との関係のみである。一方、1オンスの金の価値に上昇・下降があっても、1オンスの金の重量を変えることはできないし、その一定分量の重量にもなんら変化は及ばない。このように、金は、常に、例えその価値に大きな変化が起こったとしても、不変の価格の基準として、同じ役割を果して呉れる。
(10 ) 第二の点は、金の価値が変わっても、価値の尺度としての機能は、少しも邪魔されないということである。変化は全ての商品に同時に影響する。そこで、他の状況も同じならば、(caeteris paribus ラテン語 )従って、それらの相対的価値は、それらにおいては、(inter se ラテン語) そのままである。つまり変化しない。だが、それらの価値を新たに表す時には、高いか低いかの金の価格でとなる。
(11 ) いかなる商品もの価値を、ある他の商品の明確な使用価値の量によって、算定する場合、例えば、その商品の価値を金で算定する場合、我々は、与えられた量の金の生産に費やされた、与えられた期間の与えられた労働の量以外は必要としない。価格の一般的変動に関して云うなら、それらは以前の章で考察した、最初に出会うような相対的価値の法則に当てはまる。
(12 ) 商品価格の一般的上昇は、以下の二つの場合にのみ起こり得る。一つはそれらの価値の上昇−貨幣の価値は一定として−または、貨幣の価値の下落、商品の価値は一定として、のどちらかである。一方、商品価格の一般的下落は、同様、一つは商品の価値の下落、貨幣の価値は一定として−または、貨幣の価値の上昇、商品の価値は一定として、のいずれかである。従って、貨幣の価値の上昇が、商品の価格の比例的下落を意味することにはからずしもならないし、また貨幣の価値の下落が、商品の価格の比例的上昇を意味することにもかならずしもならない。商品の価値が一定の場合のみ、そのような価格の変化が生じる。例えば、商品の価値が上昇し、同時に、貨幣のそれにも同様の比例的な上昇があれば、価格に変化は生じない。そしてもし、商品の価値の上昇が、貨幣のそれより遅いか早いかしたならば、それらの価格は、商品と貨幣の価値の変化の差によって、下落か上昇かが決められることになろう。その他いろいろなケースがある。
(13 ) さて、それでは、また、価格形式の考察に戻ることにしょう。
(14 ) しばらくするうちに、貨幣の形をとる貴金属の様々な重量による使用貨幣名と、元から使われていた名称である実際の重量との間に食い違いが起きるようになった。その食い違いは、歴史的な理由による。そのうちの主なものは、(1)他民族からの通貨の輸入、発展段階の低い民族に対する先進地からの。初期ローマでは、金貨・銀貨が外からの商品として流通した。これらの外からの硬貨名は、原産地でのそれらの重量と一致することはなかった。(2)富の増加により、劣位の金属は優位の金属によって、価値の尺度としての立場から押し出される、銅が銀によって、銀が金によって。ではあるが、こうしたことが、この順で、詩的年代記のように進行したわけではない。(本文注: もっとはっきり云うなら、一般的歴史的正当性を持ってはいない。)例えば、ポンドなる名称は、銀の重量1ポンドに与えられた貨幣名であった。銀の価値の尺度の位置を、金が奪ったことにより、同じ名称が、銀と金との価値の比率に従って、およそ1/15 ポンドの金に採用されたのであった。このように、貨幣名としてのポンドは、重量名としての同じ言葉から、違ったものとなった。(3)何世紀にもわたって継続的に、王や王子達による貨幣の改鋳・改悪が、硬貨の元の重量に対して行われ、硬貨は事実上なくなってしまったが、名称だけは残った。
(15 ) このような歴史的原因が、貨幣名から重量名を切り離して、民族的集団における確立した習慣へと変換する。以来、貨幣の標準は、一方では、純粋に因習であり、また他方、一般的に受容されるものとして見られなければならない。つまり最終的には、法律で規定される。ある貴金属の与えられた重量、例えば、1オンスの金は公式的に一定分量に分けられて、法律的に名称を授けられる。ポンド、ドル、その他と。この一定分量は、その時以来、貨幣の単位を務める。また、この一定分量は、さらに細かく区分されて、法律的名称、シリング、ペニー、他となる。しかし、これらのいずれも、区分される前も後も、ある明確な金属の重量が、金属貨幣の標準である。ただ一つの変更は、細分化と単位名称だけなのである。
(16 ) 価格または金の量は、そこに商品の価値が観念的に変換されているのだが、それらは、従って、今では、硬貨名で表現される。または法律的に決められた金標準の細分量名で表現される。であるから、例えば、1クオーターの小麦は1オンスの金の価値があるという時、それは、3ポンド 17シリング 10ペンス 1/2の価値であると云う。この方法で、商品は、それらの価値がどれほどのものかを、それらの価格で表し、貨幣は、貨幣勘定を務める。ある品物の価値を貨幣形式で明確にする時はいつでもこのようにする。(文字の色が変わっているところは、英文ではイタリックで強調されている。訳者注)
(17 ) 物の名前は、その物の質からは切り離されている。私がその人の名前がヤコブと知っていても、その人については何も知らないのと同じである。貨幣も同様であって、その名前、ポンド、ドル、フラン、ドゥカート、他 から、価値関係のいかなる痕跡も消滅している。このような秘教的な符号に隠された意味に起因して惹起される混乱は、非常に大きなものとなる。なぜならば、これらの貨幣名が、二つのことを表すからである。一つは、商品の価値、それと同時に、もう一つ、金属の一定分量の重量が貨幣の標準を表すからである。一方、様々な商品の物体的な形から切り離したところの価値、この材料的で、具体的な意味を持たないそれを、同時に純粋に社会的形式と認識すべき点は極めて重要なことである。
(18 ) 価格は、商品に実現された労働の貨幣名である。だから、商品の等価を、その価格を構成する貨幣総数で表すことは、同語反復である。ちょうど、一般的に、一商品の相対的価値の表現が、二つの商品の等価と云うみたいなものである。しかし、商品の価値の大きさを示す価格が、貨幣との交換比率を説明しているとはいえ、交換比率の説明が、商品価値の大きさの説明に必要であるわけではない。二つのそれぞれ同量の社会的必要労働で表されるもの、1クオーターの小麦と2ポンド(約1/2オンスの金)を考えてみよう。2ポンドは、その小麦の価値の大きさを貨幣で表したものである。またはその価格である。今、状況が、この価格を3ポンドに上昇させることを許したとしよう、または、1ポンドに引き下げるよう強いられたとしよう、そうなれば、1ポンドと3ポンドとは、小麦の価値の大きさを表すには、小さ過ぎたり、大き過ぎたりするかも知れないが、それにも係わらず、それらがその価格である。まず第一に、それが、それによってその価値が現われる形式、すなわち貨幣だからである。第二に、貨幣によるその交換比率の説明だからである。もし、生産の条件、別の言葉で云えば、労働の生産力が一定に留まるとするならば、同量の社会的労働時間が、価格が変わる以前・以後とも、1クオーターの小麦の再生産に支出されねばならない。この状況は、小麦生産者の意志にも、他の商品の所有者の意志にも依存しない。
(19 ) 価値の大きさは、社会的生産関係を表す。ある品物とそれを作るために必要となる社会的総労働時間の割合との間に必要的に存在する諸関連を表す。価値の大きさが価格に変換されるやいなや、上記の必要な関係が、一商品と他の商品、すなわち貨幣商品である、との間の交換比率として、多少偶然的ではあるが、姿を現わす。しかし、この交換比率は、商品価値の実際の大きさと、それとは別に、状況にもよるが、その価値から逸脱した金の量をも表す。だから、価格と価値の大きさとの間にある量的な不適合の可能性、また前者と後者の乖離は、価格形式自身の起因的特質なのである。これは欠陥ではない、いやそれどころか、ある生産様式によく適合している価格形式なのである。その生産様式に起因する慣例が、互いを釣り合わせるが、明らかに、無法・違法な、ただ一つの手段としての役割を、それらに賦課している。
(20 ) だがさらに、価格形式は、価値の大きさとその貨幣的表現である価格との間の量的不適合の可能性と矛盾しないだけではなく、質的矛盾を隠蔽する。それはどういうことかと云うと、貨幣は商品の価値形式以外のなにものでもないが、価格は共に価値を表していたが、次第にこれを止める。あるもの、良心とか名誉とかだが、それ自身は商品ではないが、持ち主によって売りに出すことができる。そして、その獲得は、価格を通じて、商品形式でなされる。この様に、ある物は、価値はないが、価格を持つことがあるかもしれない。この場合の価格は、観念上のもので、数学的な数量のごときものである。一方、観念上の価格形式は、直接的・間接的にかかわらず、実際の価値関係を、時には、隠す。例えば、未墾の地の価格である。人間の労働がなんら関与していないので、価値はないのだが。
(21 ) 価格は、一般的な意味で相対的価値と同じく、商品の価値を表す。(例えば、1トンの鉄)は、ある与えられた量の等価物(例えば、1オンスの金)が、直接的に鉄と交換可能であると云うことをもって。しかし、その逆の、鉄が金に対して直接的に交換可能であると云っているのではない。従って、商品が交換価値として、実際問題として、効果的に行為がなされるかどうかは、物体としての形を止めなければならないし、また単なる観念的な金からほんものの金に自らを変化させなければならない。だが、この全質変化は、ヘーゲルの「概念」、「必要」から「自由」への変化よりも、または、海老が自らの殻を捨てるよりも、聖ジエロームが老アダムの原罪を置き去りにするよりも困難やも知れぬ。
商品は、その実際の形 (例えば、鉄) を伴いながら、我々の観念上で、金の形をとれたとしても、依然として、ある時に、そして同じ時に、現実として、鉄でありかつ金であることはできない。価格を決めるためには、それが観念上の金に等しいことを満たせばよい。しかし、その所有者にそれを世界等価として提示することになれば、現実に金に置き換えなければならない。もし仮に、鉄の所有者が、ある他の商品の所有者の所に行って、交換を申し入れたとするならば、そして、彼に鉄の価格をすでにそれは貨幣であるとして伝えたならば、彼は聖ペテロが天にてダンテに答えたのと同じ答えを得たであろう。その時ダンテは、こんな詩を唄っていた。
(22 ) 「これで信仰の純度と重さは両方とも検査されました。でも、教えてください、あなたはその信仰をあなたの心に持っていますか?」私は答えました。「はい、持っています。正しい信仰です。」(ダンテ「神曲」天国篇 第24歌)(英文中ではイタリア語でこの部分が書かれているが、伊文省略。 訳者注)
(23 ) 従って、価格は、商品が貨幣と交換可能であり、また、交換されねばならないことの両方を暗に示している。一方、金は、観念上の価値の尺度を務める。ただ、それは、すでに、交換の過程において、貨幣商品であると自身を確立しているからである。観念上の価値の尺度ではあるが、下には硬い現金が潜んでいる。
第二節
流通の手段
A. 商品の変態
(1) 我々は、前章で、商品の交換は、矛盾しかつ互いに排他的な条件を含んでいることを見た。商品を商品と貨幣に分けることが、これらの矛盾を払拭するのではなく、妥協的方便を発展させ、なんとか並立できる形としている。(文字の色が変わっているところは、英文ではイタリックで強調されている。訳者注)
これは、現実の矛盾を調和させる一般的な方法なのである。例えば、ある物体が常に相手方に向かって落下している状態で、同時に、そこから常に飛び去ろうとしている状態を叙述するという矛盾である。楕円は、この動作の一つの形式として、この矛盾を許容しながら、同時に、調和せしめている。
(2 ) 交換が一つの過程である限りにおいて、商品は、非使用価値である持ち手から、使用価値となる使い手へと移される。社会的な流通ということである。有用な労働の一つの形式である生産物が、他のものに置き換わる。商品が一度、落ち着き先を見つければ、そこで使用価値として仕えることができる。交換の世界から消費の世界に抜け出る。しかし、現時点では、前半の世界ただ一つが我々の関心事なのである。従って、我々は、今、現実に行われている形式的な外容から交換を見て行かねばならない。社会的な流通を実効あらしめているところの形式の変化または商品の変態を考察して行かねばならない。
(3 ) この形式の変化なるものの把握は、一般的に、大変不十分である。その不十分さの理由は、価値それ自体が不明瞭な概念であることを別にすれば、全ての商品における形式の変化が、通常の商品と貨幣商品という二つの商品の交換に起因している。もし、我々が、商品は金のために交換されるという、目に付くだけの事実の視点に留まるならば、我々は、注目すべき大事な点、すなわち、商品の形式に生じた変化を見落としてしまうだろう。我々は、金がその時は単なる商品であり、貨幣ではなく、他の商品が自身の価格を金で表す時、この金は、まさにそれら商品自身の貨幣形式であるという事実を見落とすことになる。
(4 ) 商品は、とにもかくにも、あるがままで、交換の過程に入る。そして、その過程が、それらを商品と貨幣とに分ける。そして、このことが、それらにもともと内在している一方に対して、対立する表側の他方をもたらす。まさに、使用価値と価値、そのことである。商品は、今、貨幣つまり交換価値に対立して立っている。がしかし、この違いの統合は、それ自身を二つの対立する極、それぞれの極は互いに異なる方向に向いている、を表している。二極は、必要な対立として、結合されている。等式の一方に、我々は、通常の商品を置く、それは現実の使用価値である。その価値は、観念的に価格で表されている。それの相手方、その価値を実際に体現している金と等価とされる。他方においては、金属としての現実の金、価値の体現と同等な物としての、貨幣がある。金は、金として、それ自身に交換価値がある。使用価値として見るならば、他の全ての商品と面前で相対している相対的価値の表現の系列で表される観念的な存在に過ぎない。これらの使用の総計が、様々な金の使用の総計となっている。これらの相反する商品の形式が、それらの交換がはじまり、実現する過程を表す実際の形式なのである。
(5 ) ある商品の所有者−そう、古き友リネン織り職−に連れ立って、その活動場面、市場に行ってみよう。彼の20ヤードのリネンは、正確に、2ポンドの価格である。彼は、それを2ポンドと交換する。そして、彼は、よき古き人と称されるがごとき人物として、同じ価格の家庭用の聖書に、その2ポンドを手離す。リネンは、彼から見れば単なる商品である。価値を保有するところの。彼は、これを金へと手離す。それは、リネンの価値形式である。そしてこの形式を彼は、再び別の商品へと手離す。聖書である。聖書は、有用物として、そして家人の敬虔な祈りを導くものとして、彼の家に入る運命にある。この交換は、二つの相反する変態、とはいえ補足しあう性格ではあるが、によって、既成の事実となる。−商品の貨幣への変化、そして貨幣の商品への再変化である。この二つの変態の局面は、共に、明らかに、織り職の取引である。売りまたは商品の貨幣との交換、買いまたは貨幣の商品との交換である。そして、この二つの行動を結びつけているものは、買うために売るということである。
(6 ) この全ての取引の結果は、織り職から見れば、リネンの所持に替わって、今度は、聖書となる。最初の商品に替わって、他の同じ価値ではあるが、違った有用なものを所持している。このような方法で、彼は、彼の他の生活用品や、生産の手段を獲得する。彼の視点から見れば、この全ての過程は、彼の労働の生産物と、他の者の生産物との交換以上のものはなにも発動されておらず、生産物の交換以上のものはない。
(7 ) 従って、商品の交換には、それらの形式において、次のような変化が伴っている。
商品(Commodity)――貨幣(Money)――商品(Commodity)
C―― M ――C
(ドイツ語版由来の表現なら、W―― G――W (訳者注))
この全過程の結果は、品物に限って云えば、C-C , 一つの商品と他との交換であり、物の形を呈した社会的労働の流通なのである。この結果が達成されたならば、この過程は終了する。
(8 )
C - M. 最初の変態、または売り
価値の商品物体から貨幣物体へとの跳躍は、私が、いろいろなところで声を大きくして云って来たように、商品の命懸けの跳躍(salto mortale: イタリア語)である。もしも、その飛躍が短かすぎて落ちたら、商品自体にはなんら傷つくものではないが、その所有者は、当然傷つく。労働の社会的な分割は、彼の労働をただの一隅のものとなし、彼の欲求を多面的なものとなす。なにゆえに、彼の労働の生産物が彼にとっては単なる交換価値となるかの、これが詳細なる理由である。しかし、貨幣への変換なくしては、社会的に認知された性質、世界等価を獲得することはできない。だが、貨幣は、別の誰かのポケットの中にある。そのポケットから貨幣が出てくるように仕向けるのは、我が友の商品が、これがその全てなのであるが、貨幣所有者にとっての使用価値であらねばならぬ。このためには、そのものに支出された労働が社会的に有用な種類のものであり、労働の社会的分割の一分枝を構成している種類のものであることが必要なのである。しかし、労働の分割は、生産のシステムであり、自発的に成長してきた。そして、生産者達の背後に隠れて成長を続けている。交換される商品は、なんらかの新たな種類の労働の生産物であって、あらたに生じた要求を満足するかとか、または、その物自身が新しい要求を生み出すとかいうものであるかもしれない。昨日までは、多分、一生産者がある与えられた商品を作るために行う多くの工程の一工程であった一つの特定の工程が、今日は、その関連からそれを分けて、独立した労働の一分枝としてそれ自体を確立するかも知れない。そして、独立した商品として、市場にその未完な生産物を送ってくるかも知れない。そうした状況が、分離として成熟しているかいないかに係わらず。今日、その生産物は、社会的な欲求を満たす。明日は、その品物が、他のふさわしい生産物によって、完全に、または部分的に、取って代わられる。さらに、我々の織り職の労働が、社会的分割の一枝たる労働と認めらているであろうとしても、決して、彼の20ヤードのリネンの有用性が十分に保証されているという事実はない。もし、集団のリネンへの欲求が、他の様々な欲求と同様、この欲求も限界を持っているのだから、すでに、ライバル織り職の生産物で、限界に達しているかも知れない。我が友の生産物は、不必要で、余分である。従って、有用性がない。人は、もらった馬の贈り物の歯は見ないもんだと云うが、我が友は、贈り物をするためにたびたび市場に行くわけではない。さて、話は戻って、彼の生産物が使用価値を実現したとしよう。ならば、貨幣を引きつけただろうか?そこでの疑問は一つ、一体どのくらい引きつけたか?である。答えは、疑うまでもなく、その品物の価格として予め付けられている。価値の大きさの宣言としてである。我が友の偶然的な計算ミスはこの際は、一切考慮しないものとする。ミスは市場で、直ぐに正される。彼は、彼の生産物に、ただ社会的に必要な平均的な労働時間を費やしたものと思われる。だから、その価格は、彼の商品に実現された社会的労働の量の単なる貨幣名であるに過ぎない。しかし、我が織り職の許可なく、彼の後ろに隠れて、織りの古き生産様式はこっそりと変化している。昨日までは、1ヤードのリネンの生産に社会的に必要な労働時間は、疑う余地のないものだったが、今日は停止している。事実は、貨幣所有者が、ただ、我が友の競争相手が云う価格から、それを証明しようと熱心なのである。彼にとっては、不運だが、織り職は、ほとんど居ないわけではないし、遠く離ればなれでもない。最後に、市場にある全てのリネンが、社会的に必要な労働時間を含んでいると考えてみよう。これとは逆に、すべてのこれらのものの、全体としては、それらに余分な労働時間を費やしたかも知れない。もしも、市場がヤード当り2シリングの通常価格で全てのこれらの量を胃に納めることができないならば、集団の総労働時間の多過ぎる部分を機織り形式に費やしたことを証明している。その影響は個々の織り職が彼の特定の生産のために、社会的な必要性以上の労働時間を費やしたと言う事と同じである。ここで、ドイツの格言を云わせてもらえば、いっしょくたに捕まったら、いっしょくたに吊るされる。市場にある全てのリネンは、取引としては一つの品目であり、個々の布は、そのただの小さな部分でしかない。そして、それぞれの単ヤードの価値は、均一に混ぜ合わされた人間の労働の、社会的に決められた量の、明確なる同じものの物体的形式なのである。
(9 ) 我々は、商品が貨幣を愛しているのを知っている。だが、真の愛の行く先には、滑らかな走りはないものであることも。労働の分割の量は、その質の分割と同じように、自発的で偶然的な方法でもたらされる。このため、商品の所有者達は、同じ区分の労働が、彼等を個々独立の生産者にしており、また、生産の社会的過程や、同じ過程の中のお互いと個々の生産者との関係を、これらの生産者の意志による全ての依存性から切り離しており、そして、個々の互いの独立性にもかかわらず、一般的で互いに依存しあうシステムが、するどく追加されている様子を見出す。または、生産物によっても見出す。
(10 ) 労働の分割は、労働の生産物を商品へと変換する、そしてそれゆえに、それをさらに、貨幣へと変換する必要を作り出す。また同時に、この全質変換の完成を偶然的な出来事にしている。とはいえ、我々は、ここでは、この現象が完全に成就し、従って、この過程が正常になされることのみに関心を持っている。いや、それ以上で、もしこの変換がはじまるとし、商品が絶対に売れないということがなければ、この変態は生じる。たとえ、価格が表すものが、価値以上だったり、以下だったりと異常なものだとしてもである。
(11 ) 売り手は、彼の商品を金で置き変える。買い手は、彼の金を商品で置き変える。 我等の眼前に迫っている事実は、商品と金であり、20ヤードのリネンと2ポンドであり、これらが、持ち手を変え、持ち場所を変える。別の言葉で云えば、彼等は交換されたということである。だが、商品は何と交換されたのか? それ自身の価値を表す物体の形と。世界等価とである。では、金は何と? 自身の使用価値の特定の形式とである。なぜ、金は、リネンに対応して貨幣形式をとるのか? なぜなら、リネンの価格は2ポンドであり、貨幣の単位で示されており、すでに、リネンを金と、貨幣形式において、等価としている。商品は譲渡の瞬間、元の商品形式の衣を脱ぎ捨てる。すなわち、その瞬間、その使用価値がなんと金を引きつける。ほんの少し前までは、ただ観念上の価格という存在に過ぎなかったのにである。価格の実現、またはその観念上の価値形式は、従って、同時に、観念上の貨幣の使用価値の実現である。商品の貨幣への変換は同時に、貨幣の商品への変換である。明らかなように、一つの過程は、二つのものを実際に示している。商品所有者の極からは、それが売りであり、その逆の極、貨幣所有者からは、それが買いである。他の言葉で云えば、売りは買いである。
C - M は、また M - C である。
(12 ) ここまでのところでは、我々は、人々をただ一方の経済的範疇として見てきた。それは、商品所有者としてであり、その範疇においては、彼等自身の労働の生産物を差し出して、他人の労働の生産物を自分のものとする。
だがここからは、一人の商品所有者は、他の貨幣所持者に合うことになる。後者、つまり、買い手、の労働の生産物は、貨幣となっていなければならない。金でなければならない。または、貨幣を構成するものへと、彼の生産物がすでに、その皮膚を脱ぎ捨てて、元の有用なものとしての形を脱ぎ去って、自身が変換していなければならない。貨幣として演じようというならば、金は、どこかの時点で、勿論のこと、市場に入っていなければならない。その時点は、金属の生産現地で見つけることができる。そこで、金は、労働の直接的な生産物として、誰か他の等価の生産物と、物々交換された。この瞬間から、それは、常に、あらゆる商品の価格を具体化している。産出現地での他の商品との交換を別にすれば、金は、あらゆる商品の所有者が譲渡した形を変換した形とするであろう。売りの生産物であり、最初の変態 C - M である。金、我々が見たように、観念上の貨幣となる。または、価値の尺度となる。それは、全ての商品がそれらの価値をそれで計るからであり、それらの有用なものとしてのそのままの形を観念的に明確化する。そして、それらの価値の形を作るものとなる。それが、真の貨幣となる。商品の一般的な譲渡によって、有用なもののそのままの形式で、実際に場所を変える。そして、それらの価値を実際に体現するものとなる。ひとたび、それらが、貨幣の形と想定されれば、商品はそれらの本来の使用価値の全ての痕跡を脱ぎ捨て、それらを作り出すことになった特定の種類の労働の痕跡も脱ぎ捨てる。
自身を同形の形式、社会的に認められた均一に混ぜられた人間の労働への変形のために、脱ぎ捨てる。我々は、貨幣の片を見ただけでは、それがいかなる特定の商品と交換されたのかを、云うことはできない。貨幣形式にあるそれらの全ての商品は、みな同じように見えるだけである。貨幣が汚いものであったとしても。とはいえ、汚いものが貨幣ではない。さて、我が織り職がリネンを手離したことを考えると、我々は、二つの金片が、1クオーターの小麦の変態した形であることを知ることになるであろう。リネンの売りが、C-M が、同時に買い、M-C
である。ただし、最初の行為である売りの過程が、それとは異なるものへの取引となって終わる。すなわち、聖書の買いである。一方、リネンの買いは、これで終了しているが、その前段の取引は、これとは異なるもの、すなわち、小麦の売りで始まっている。C-M (リネン-貨幣) これは、C-M-C (リネン-貨幣-聖書) の最初の部分である。また、M-C (貨幣-リネン)はもう一つ運動 C-M-C (小麦-貨幣-リネン)の最後の部分である。一商品の最初の変態は、商品から貨幣への取引であり、であるから、また、常に、ある他の商品の第二の変態であり、後者の、貨幣から商品への再取引である。
(13 )
M - C または買い
商品の、第二の、そして、終局的な変態
貨幣は、全ての他の商品の変態した形であり、一般的なそれらの譲渡の結果である。この理由により、貨幣は、自身をなんの制約も条件もなく、譲渡可能なのである。それは、全ての価格を裏側で見ている、つまり、それら自らの使用価値を実現するために、そのままの形で並んでいる全ての他の商品の物体に対して、自身を叙述している。商品が貨幣に熱い視線を送っている価格は、同時に、交換性の限界を、その量を示すことで、明示している。どんな商品でも、貨幣となれば、商品としては消滅し、その貨幣自体に、所有者からどのように入手したかを聞くことはできないし、いかなる品物がそれと交換されたかも聞くことはできない。貨幣は匂わない(Non olet : ラテン語)どんな出自であろうとも。一方では売られた商品を代表し、他方では、買われる商品を代表している。
(14 ) M-C、買い、は同時に、C-M、売りである。商品の終局的な変態は、他の商品の最初の変態である。我が織り職について見れば、彼の商品の一生は、彼の2ポンドを変換した聖書で終わる。さらに、聖書の売り手が、織り職から手に入れ自由に使えるその2ポンドを、ブランデーに変えると考えてみよう。M-C、これは、C-M-C (リネン-貨幣-聖書) の終局局面であり、また同様、C-M、つまり、C-M-C (聖書-貨幣-ブランデー) の最初の変態局面である。ある特定商品の生産者は、提供できるものは一つの品物しかない、だが、これを大きな量でたびたび売る、しかしながら、彼の数多くの、様々な欲求が、彼をして、実現した価格を分けるように強いる。貨幣の合計額は、数えきれない買いを自由にする。かくて、終局的な商品の変態は、他の様々な商品の最初の変態の集合体を構成する。
(15 ) 今、我々が、商品の完成された変態について考えてみるならば、その全体は、まず初めは、二つの相対し、かつ補足しあう運動C-M と M-Cを作り上げるようなものとして表れる。この二つの、商品の著しい対照的な変化は、所有者の二つの役割である社会的行為によってもたらされる。これらの役割は、そのたびごとに、彼によって演じられる経済的性格を刻印する。売りを作る人は、売り手となり、買いを作る人は、買い手となる。だが、商品のこのような変化のたびごとに、そこには、二つの形式、商品形式と貨幣形式、が同時に存在する。ただ、対極にではあるが。全ての売り手は、彼の反対側に、買い手を見出す。そしてすべての買い手は、売り手を。ある特定の商品が、その二つの変化、商品から貨幣へ、貨幣から商品へと連続する変化を経る間、商品の所有者は、その連続経過の中で、彼の役割を、売り手から買い手に、と変える。とはいえ、この売り手と買い手なる性格は、永久的なものではなく、そのたびごとに、彼等に付着する。商品の流通に係わる様々な人々に付着する。
(16 ) 商品の完成された変態は、最も簡単な形で云うならば、4つの極端と言うべき場面と3人の劇的な登場人物を意味している。第一場は、商品が貨幣と出くわす。後者は、前者の価値の形式となる。そして、後者は、硬き現実として、買い手のポケットの中にある。商品の所有者は、かくて、貨幣の所有者との接触の場に入れられる。
直ぐに商品は、貨幣に変えられる。貨幣はその束の間の等価形式となる。
等価形式の使用価値は、他の商品の形の中に見出される。最初の変化の最終局面、貨幣は、その時、二番目の局面の開始点にいる。
最初の変化時点で売り手であった人が、この二番目の局面では、買い手となる。そこに、第三の商品の所有者が、この場面で売り手として登場する。
(17 ) 二つの局面、互いに他とは逆になる局面が、一つの回路のように、互いを一つの円運動にまとめているように、商品の変態を作り上げている。商品形式が、この形式を脱ぎ捨て、また商品形式に戻る。疑いもなく、商品は、ここでは、違った二つの局面に表れる。最初のスタート地点では、それは、所有者にとって使用価値ではない。仕上げの地点では、そうなる。また、その様に、貨幣も、最初の地点では、価値の固い結晶として。その結晶内に商品は強く凝結する。仕上げの地点では、単なる一瞬の等価形式へと溶ける。ある使用価値へと置き換わる運命にある。
(18 ) 回路を構成する二つの変態は、同時に、二つの商品の、二つの部分的な逆の変態なのである。一つのかつ同じ商品、リネンは、その自身の変態の順を開始し、また他の変態 (小麦) を完結する。最初の局面、または売り、リネンは、その人において、二つの役割を演じる。だが、そこで金に変えられる、そして第二のかつ最終的な変態を完結する。また、同時に第三の商品の最初の変態の完成を手伝う。この様に、一つの商品の変態の進行によって作られる回路は、他の商品の込み入った回路に混ざり合っている。様々な回路の総計が、商品の流通 (色が異なる部分はイタリックで強調されている: 訳者注) を構成する。
(19 ) 商品の流通は、直接的な生産物の交換、(物々交換) とは違う。形式としても、実質としても違っている。その行程だけを考えてみよう。織り職は、実際のところ、彼のリネンを聖書と交換した。ではあるが、このことは、彼自身の場合を考える限りでのみ真実なのである。聖書の売り手、彼の体を中から温める何かを選んだが、彼が聖書をリネンと交換する意図が無かったのと同様、我が織り職は、小麦がリネンと交換されたことを知らなかった。Bの商品がAのそれと置き換わる、しかし、AとBとは、互いにこれらの商品を交換したわけではない。勿論、このような、AとBが同時に互いに買い合うことが起こらないわけではないが、このような例外的な取引が、商品の流通の一般的条件においては必要的帰結であるはずもない。我々がここで見ようとしているのは、一つは、どのようにして、商品の交換が、人や地域的な結びつきが切り離されることのない直接的物々交換から、その枠を突き破ったのかであり、もう一つは、どのようにして、登場人物達の制御を大きく越えて、その成長を通じて、自発的に社会関係の全体のネットワークを発展させたのかである。それこそが、農夫が彼の小麦を売り、それが織り職の彼のリネンを売ることができた理由である。また、織り職がリネンを売り、我が向こう見ずが彼の聖書を売り得た理由である。また、後者が、永遠の人生の水を売ったので、蒸留酒製造業者は彼の命の水 (色が異なる部分はフランス語) を売ることを得た、等々と続く話の理由である。
(20 ) 流通過程は、従って、直接的な物々交換のようには、使用価値が場所と持ち手を変えたとしても、消え失せることにはならない。貨幣は、ある与えられた商品が変態する回路から落ちて消えることはない。それは、常に、他の商品によって立ち退かされたとしても、流通の場の新たな所に投入される。リネンの完成された変態では、リネン−貨幣−聖書では、リネンが最初に流通から脱落し、次いで貨幣がその場所に入る。そして、聖書が流通から脱落し、再び貨幣がその場所を取る。一つの商品が他のものを置き換える時、貨幣商品は、いつも、ある第三の者の手にくっついている。流通は、貨幣を、毛穴からの汗の如く染み出させる。
(21 ) 次のような思考ほど幼稚なものは、他にはまずない。ありとあらゆる売りは買いであり、ありとあらゆる買いは売りであるから、商品の流通は、売りと買いが必然的に均衡しているはずという思考ほど。もし、これが、現実の売りの数が、買いの数と等しいことを意味しているならば、それは単なる同語反復でしかない。ではなくて、実際的な意味は、あらゆる売り手が、彼の買い手を市場に連れて共にくることを証明したいのであろう。自分とは違った種類のものの、買い手を。売りと買いは一つの同じ行為である。商品所有者と貨幣所有者間の交換であり、二人の磁石の両極のように互いに相対する人の間のことである。一人の人間によって行われたとしても、それらは極性があり、反対の性格を持つ、二つの明確な行為を形づくる。であるから、もし、流通という錬金術レトルトに投げ入れても、貨幣の形で再び出てこないということになれば、別の言葉で云えば、所有者によって売ることができず、また当然ながら、貨幣の所有者によって、買われないならば、この売りと買いの同一性から云って、商品は使い物にならないということになる。この同一性は、さらに、次のことを意味している。もし、交換がなされれば、商品の長いか短いかの一生を終えるということである。商品の最初の変態は、その時の売りと買いである。それはまた、それ自身においては、独立の過程である。買い手が商品を持ち、売り手が貨幣、すなわち、いつなりとも、流通に入り込む用意ができている商品を持つ。何人も、ある誰かが買うことなしには、売ることはできない。しかし、何人も、彼が売ったからといって、直ちに買うことを義務づけられているわけではない。流通は、直接的物々交換では課せられていた、時間、場所、そして個人の制約、これら全てを取り壊す。そして、流通は、物々交換においては存在した、ある者の生産物の譲渡とある者の生産物の取得の間の直接的同一性を、一つの売りと一つの買いに解体する効果を果たす。これら二つの独立した、相反する行為は、切り離せない一体を成しており、本質的一体であり、また同様にこの切り離せない一つのものが、自身をして外見的には正反対のものを表している。もしも、完成された商品の変態における、二つの部分的な変態局面の間の、ずれ時間が非常に長くなると、もしも、売りと買いの裂け目が非常に著しいものとなると、それらの間の親密なつながりが、それらの同一性が自ら、恐慌を生み出すことによってその存在を主張する。
訳者余談。ついに、商品の交換、貨幣の成立、商品の変態 と進んできて、商品の変態過程が断絶する恐慌が記された。今、2009/06/01 GMが倒産、自動車商品が売れない。世界の大衆は買えない。1978年には、955万台の車を売ったが、以降漸減、2008年には、834万台へと減少、負債約16兆4千億円 (資産7兆8千億円) で、経営が成り立たなくなった。台数的に見たら、平均変態断絶台数4万台/年、平均約−0.5%/年の台数の減少に過ぎないが、約30年続いた売り上げ台数減は決定的な痛手となった。2005年から一気に経営悪化、規模によるコストダウンを目指しての企業合併策や、増資、海外マネー導入等々を図るも、ことごとく失敗、政府に泣きつく以外には手がなくなった。米政府が公金約4兆8千億円を投入して、株式の72.5%を取得し、経営建て直しに取り組むという。だが、この商品の変態 の断絶、つまり恐慌をどのように取り除くのか、その見通しはまだない。オバマ大統領は、「GMに過半を出資するが、本当は関与したくなかったが、関与しなければ、米経済に著しい影響を及ぼす企業を精算することになってしまう」と述べた。また、政府高官は、「強調したいことがある。我々はGMの株取得をせがんだこともないし、要望したこともない。」と。資本側から見れば、債権の9割を失い、新GM株10%を取得、さらに15%買い増しの権利を得た。またAIG保険会社(政府公金投入先)による保証も期待の可能性がある。株は紙切れになったが、この長期間で半分は回収できたというところか。経営者の高額給与等の返却等は今後の問題。一方労働者側は、生産の縮小から、労働者数の半減、さらに、労働者の給与のダウン、現役・退職者の医療保険や年金の半減、となる模様。全米自動車労組(UAW)は、役員1人の権利と、15%の株式の取得、それと米国内での生産比率を66%から70%へ引き上げるという小さな約束を得た。その他、デイラー等の販売網の整理縮小、部品等の下請け業者に対する支払いの問題はこれからだ。
一体どんな車を作ることになるのか? まずは採算性から、現経営陣からは、主力ブランドのシボレーやキャデラックなどの車種という案、一方UAWは、我々は小さな車をこの国でつくる能力があるという。電気自動車シボレーボルト案もある。さて、どう展開するのか? 資本側からの「奴隷制擁護の反逆」なしには、多分何事も納まらないだろう。
私の師匠はご自分のブログで、こう書いている。会社が潰れると雇用も減少し、失業者が増える、だから会社の経営を建て直すことが第一に必要だ、という考え方がいまの社会常識である。しかし、この社会常識には、一つ大きな誤解がある。会社の経営を立て直すということは、資本家の手に会社を委ねることばかりではないはずだ。労働者が自ら経営を立て直すこともできるはずだ。政府は債権者達から株を買い取り、それを生産手段とともに労働者の共同管理のもとに置き、労働者自身が生産を運営することを支援することも出来るはずだ。単一の企業だけがそのような形を取っても資本主義的市場が存在する以上そう簡単には、労働者階級の社会的主導権が確立するわけには行かないだろうが、労働者の側に立った政府が一貫した政策を持って倒産した企業から生産の主導権を資本家から労働者側に移していくことで、社会は徐々に変われるかもしれない。そしてそれに沿った法や税制の改正を行い、国際的な協力体制を作っていくことができたなら、これこそ本当に社会主義化といえるだろう。もしアメリカがこのような方向に歩み出したなら、それこそ本当にWe can change. You can change.である。しかし歴史というのは、それほど生やさしくない。我々にとっておそらく予想もしないような展開が待っているのだろう。と。
(なにもしない政府、10〜25%の株を持つ債権者、15%の株を持つUAWからなる新経営陣の帰趨は、一見単純な答えにも見える。だが、世界大衆の意志の大きさというものがその背後に貨幣を持たずに睨んでいるのだから。訳者の追記)
商品によって成り立つ現資本主義社会の本質的な宿命、恐慌を解決するのではなく、恐慌状態の長期化とさらなる大きな恐慌を作り出すのであろう。その仕組みが次節以降の展開で、より明確に見えてくることを予感させてくれる。資本論の凄さをすでに感じないではいられない。続く本文文節を読めば、直ぐに、あきらかになる。
正反対のもの、使用価値と価値、個々の労働が自身が直接的な社会的労働となるという矛盾、特定の具体的な種類の労働が内容をそぎ落とした「人間の労働」とならざるを得ないこと、品物の擬人化と、物による人間の表現、これら全ての正反対で矛盾するもの、それらが、商品には内在している。それらは自己主張し、そして商品の変態という、相反する局面における、運動様式を発展させる。従って、この様式が恐慌の可能性を意味する。可能性以上のものではないが。この単なる可能性を現実へと変化させるものは、関係の長き繋がりの結果である、我々の現在の単純なる流通の観点からのものであるが、まだその繋がりの存在には論及していない。
B. 貨幣の流れ
原訳者(ムーア氏)の注 このタイトルの「貨幣の」以降の言葉は、原本の示すところは、貨幣がたどる道筋とか軌跡を意味している。手から手への変化のように。この道筋というのは、流通というのとは本質的に違っている。(貨幣の流通とはしない、この私の訳が適切かどうかは本文を読むことで明らかになるはずである、原文(英文)は、 The currency of money である。なお、向坂本は貨幣の流通となっているが、流通にルビがあって、ウムラウフとふってある。訳者注)
(1 ) 形式の変化、C−M−C、この変化によって、労働の物体的生産物の流通が始まるのだが、この変化が、商品の形の中にこめられた、ある与えられた価値をして、過程を開始するべきものであると要求しており、また同様、商品の形の中で、完了すべきものと要求している。従って、この商品の運動は回路となる。一方、この運動の形式は、貨幣の回路とはならないようになっている。結果は、貨幣の戻りではなくて、その開始地点からより遠ざかり続ける動きとなる。売り手が彼の貨幣を固く保持しているならば、それは彼の商品の移転中の形であり、商品としては、変態の最初の局面にあり、ただその変化の半分を成したにすぎない。しかし、すぐにでも過程は完成、すぐにでも買いによって彼の売りを補足する。貨幣は、再び、所有者の手から離れる。確かに、もし織り職が聖書を買った後で、さらにリネンを売れば、彼の手に貨幣が戻ってくるだろう。でも、この戻りは、最初の20ヤードのリネンの流通に係わったものではない。その流通は、聖書の売り手の手の中に入った貨幣で終わっている。織り職の手への貨幣の戻りは、ただ、新たな商品による流通の過程の、更新または繰り返しによってもたらされる。更新された過程もまた、前回同様の結果をもって終わる。結局、商品の流通によって貨幣に授けられたこの直接的な運動は、常に、その開始点から遠ざかる動きを形作る、商品所有者の手から他のそれらの手への道筋で。この道筋がその流れを構成する。(貨幣の流れ)(括弧部分はフランス語 訳者注)
(2 ) 貨幣の流れは、いつも、単調で、同じ過程の繰り返しである。商品はいつも売り手の手の中にあり、貨幣は、買いの手段として、いつも買い手の手の中にある。貨幣は、商品の価格を実現することによって、買いの手段の役目を務める。この実現が、その商品を売り手から買い手に移し、また貨幣を買い手からそれらの売り手へと動かす。そのように、また他の商品に関して同じ過程が再び行われる。この貨幣の動きの一面的な性格は、商品の動きの二面的な性格から生じているが、そのためにその事実を隠してしまう。商品の流通のまさにその性質が、逆の外観を産む。最初の、商品の変態は、目に見える。貨幣の動きだけでなく、商品自体のそれも。二番目の変態においては、それとは逆で、その動きは、ただ貨幣の動きとして我々の目の前に表れる。流通における第一の局面では、商品は貨幣と場所を変える。その結果、商品は、その有用な物であるからこそ、流通から降りて消費へと進む。それとは代わって、我々は、価値の形−つまり貨幣を持つ。それから、それは流通の第二の局面を通り抜ける。それ自身のあるがままの形の故ではなく、ただ貨幣としての形であるがゆえに。従って、この動きの一連は、ただ貨幣によって維持継続される。そして、この同じ動きが、商品は二つの正反対の性格の過程を構成するものであるが、あたかも貨幣の動きとして考えられることから、いつも一つの同じ過程、常に新たな商品とその場所を変え続けるものとなる。従って、商品の流通、すなわち、ある商品が他の商品によって置き換えられる、によってもたらされる結果が、次のような様相を呈する。商品の形式の変化によって完結するというよりは、貨幣が流通の媒体役を演じているように見える。その行為によって、商品が流通し、全体的には外観上の動きもなしに、使用価値とはならぬ手から使用価値となる手への移動のように見せる。そして、貨幣の移動とは逆の方向へと常に移動させるように見える。一方の貨幣は、連続的に、商品を流通から引き降ろして、その場所に入り込むように見える。だから、連続的に開始地点からますます遠くへと離れるように動いて行くように見える。だから、貨幣の動きは単に商品の流通の表現であるにも係わらず、あたかも事実上は逆の様相を呈し、商品の流通は、貨幣の動きの結果のように見える。
(3 ) 繰り返しておくが、貨幣が流通の手段として機能するのは、ただその中に、商品の価値の独立した実物を保持しているからである。従って、その動き、流通の媒体役のごとき動きは、事実としては、ただ商品の動き、その間にそれらの形式を変えていることを示しているだけである。つまり、この事実が自身をして、貨幣の流れを容易に見えるようにせざるを得ないということなのである。であるから、リネンを例にとれば、最初の変化は、その商品形式から貨幣形式である。最初の変態の第二の局面、C-M、貨幣の形、そして、最後の変態の最初の局面、M-C、その再変換、聖書へ である。しかし、この二つのそれぞれの形式の変化は、いずれも、商品と貨幣との交換によって完成される。それらの往復的位置変換によって。同じコインの断片達が、売り手の手に、商品の形式を譲渡したものとして、やってくる。そしてそれは、絶対的譲渡可能な商品形式として去る。(色が違っている部分は、いずれもイタリック体で書かれている。訳者注)それらは二度場所を変える。最初のリネンの変態で、これらのコインを織り職のポケットに置き、そして二番目では、それらをそこから取りだす。同一商品による正反対の二つの変化は、同一のコインの断片達の場所の置換、二度繰り返され、しかも反対の方向にであるが、を表している。
(4 ) もし、そうではなくて、ただ一局面の変態だけが行われるものとすれば、もし、単なる売りまたは単なる買いのみとすれば、与えられた貨幣の断片達は、ただ一度だけ場所を変えるだけである。その二度目の場所の変更は、いつも、商品の第二の変態を表す。貨幣からの再変換である。度重なる同じコインの場所変更は、一つの商品が経過した一繋がりの変態を表すばかりでなく、一般的商品世界の数えきれないほどの変態の絡み合いをも表している。ただ我々が今検討している形式では、これらのことを当てはめできるのは、単純な商品の流通に限ってのみ、であることは云うまでもない。
(5 ) あらゆる商品は、最初に流通に入り込み、そしてその最初の形式変更へと進み、そしてただ流通から今度は、脱落する。そして、他の商品によって置き換えられる。貨幣は、これとは異なり、流通の媒体役として、継続して流通の局面の中に留まる。そして動き回る。そこで、次の質問が生じる。この局面は一体どのくらいの量の貨幣を定常的に含んでいるのか?と。
(6 ) ある想定上の国では、毎日全く同じ時刻に、ただ異なる地方においてだが、数多くの一方向の商品の変態が見られる。他の言葉で云うなら、数多くの売りと数多くの買いかある。商品は、事前に、想像上、それらの価格によって、貨幣の明確な量と等価となる。そして、それゆえ、ここで検討している流通形式においては、貨幣と商品は、常に、物体の顔と顔でやってくる。一つは買いの正極に、他方は売りの負極に。流通の手段の大きさとして求められるものは、予め、これらの全ての商品の価格の総合計によって決定されていることは明らかである。事実上、貨幣は実体として、商品の価格の総合計によって、予め、表された観念上の黄金の総合計、その量を表している。この二つの総合計は、従って、等しいことは自明である。
しかしながら、我々は、商品の価値が不変であるとしても、それらの価格は、黄金(貨幣の素材)の価値に伴って変化する。その価値が下落すれば、それに比例して価格は上昇し、上昇すれば、比例して下落する。つまり、もし、黄金の価値がこのように上昇または下落するならば、商品の価格の総合計は下落または上昇し、流れの中の貨幣の量は、同じ程度、下落または上昇せざるを得ない。流通媒体量の変化は、この場合、確かに貨幣自身によって起こるが、流通媒体としての機能によるとは云えるものではなく、むしろ、価値の尺度機能によるものと云える。最初、商品の価格は、貨幣の価値とは逆に変化する。次いで流通の媒体量が、商品の価格に応じて直接的に変化する。もし例えば、黄金の価値が下落する代わりに、黄金が銀によって価値の尺度の地位を置き換えられたとすれば、まさに、同じ事が価格に起きるであろう。または、もし例えば、銀の価値が上昇する代わりに、黄金が銀を価値の尺度から押し出すことになれば、まさに、同様のことが価格に起きるであろう。一つのケースでは、以前の黄金よりも多くの銀の流れが生じ、他の場合は、以前の銀よりも少ない黄金の流れが生じる。いずれの場合においても、貨幣の物体としての価値、すなわち価値の尺度を果たす商品の価値は、変化するであろう。であるから、そのように、同じように、貨幣によってそれらの価値を示す商品の価格も変化するであろうし、そのように、同じように、それらの価格を実体化する機能である貨幣の流れの量も変化するであろう。すでに、我々が見てきたように、流通の局面は、黄金(または貨幣の一般的物体)が、ある与えられた価値の商品としてその中に滑り込めるように開いている回路を持っている。従って、貨幣がそれらの機能、価値の尺度として侵入する時、価格を表す時、その価値はすでに決められている。もし、今、それらの価値が下落するならば、その事実は、最初に、それらの産出の現場で直接的に行われる物々交換で、交換されるそれらの商品の価格の変化によって証明される。他の全ての商品の大部分は、特に十分に発達していない文明社会においては、長期間にわたり、以前の古いままで実情無視の価値の尺度による価値で見積もられ続けることとなろう。とはいえ、一商品のそれは、それらの一般的価値関係を通じて、他の商品に感染する。であるから、それらの価格は、黄金または銀で表される価格は、それらの相対的な価値によって決められるところに次第に落ち着く。最終的には、全ての商品の価値は、貨幣を成す金属の新しい価値によって見積もられるものとなる。この過程には、貴金属の量の連続的な増加を伴う。増加は、産出現場での直接的な物々交換される品物と置き換えられるそれらの産出流に起因している。従って、商品一般が真の価格を求めるにつれて、それらの価値が貴金属の下落した価値に応じて見積もられるにつれて、それらの新しい価格の実現のために必要な金属の量の同様の比率量が予め供給される。新しい黄金や銀の供給源の発見に続いて起こるこれらの結果の一面的観察から、17世紀の、特に18世紀のある経済学者達をして、間違った結論へと導いた。商品の価格が上昇したのは、流通手段の役を果たす黄金や銀の量の増大の結果であったと。
それゆえ以降、商品の価格を想定する場合はいつでも、その瞬間においてとする。であるから、この仮定において、流通の媒体の量は、実現されるべき価格の総計によって決められる。もし今、さらに、それぞれの商品の価格が与えられているものと想定すれば、価格の総計は、明確に、流通内にある商品の大きな固まりに依存する。次のことを理解するに、少しも頭脳を減らすことはなかろう。もし1クオーターの小麦のコストが2ポンドであるとしたら、100クオーターの小麦のコストは200ポンドになるであろう、200クオーターなら、400ポンド、以下同様、この結果として、貨幣の量は、小麦と入れ代わるために変化する。売れれば、その小麦の量に応じて大きくならねばならぬ。
(7 ) もし、商品の大きな量が一定であるとすれば、商品の価格の変動に伴って、流通貨幣量が変わる。価格の変化に応じて価格の総計が増加したり減少したりするため、その貨幣量が増加したり減少したりする。この影響を生じさせるためには、全ての商品が同時に、上昇または下落しなければならないと言うわけではない。主要な品物のいくつかの価格の上昇または下落で十分である。全ての商品の価格総計は、ある場合には増加し、他の場合には減少する。そして、従って、より多くまたはより少ない流通内の貨幣量となる。価格の変化が、商品の価値の現実の変化と一致している場合、または、市場価格の単なる変動の結果である場合は、流通の媒体の量への影響は、その量を変えない。
次のような品物が売られた、または部分的な変態が同時に異なる場所で起こったと考えてみよう。それは、1クオーターの小麦、20ヤードのリネン、1つの聖書、4ガロンのブランデーとしょう。もし、それぞれの品物の価格が2ポンドだとすれば、その価格の総計は、従って、8ポンドで表される。ならば、8ポンドの貨幣が流通に入り込まねばならないことを意味する。一方別に、もし、これらと同じ品物が、次のような一連の繋がりをもった変態であるとしよう。1クオーターの小麦−2ポンド−20ヤードのリネン−2ポンド−1つの聖書−2ポンド−4ガロンのブランデー−2ポンド、この連鎖は我々にはお馴染みのものである。この場合では、2ポンドが異なる商品を次から次と流通させる。これらの価格の実現を連続的に成した後、つまりそれらの価格総計、8ポンドの流通を連続させた後、それらは、最後に、蒸留酒製造業者のポケットの中の休息に行き着く。まさに、その2ポンドがこの様に4回の運動を成す。繰り返される同一コインの断片達の場所の変更は、商品形式の二回の変化に相応しており、流通の二つの場面を反対方向で通過するそれらの動きにも相応している。そしてまた、様々に違う商品の変態の絡み模様にも相応している。変態の過程を構成するこれらの正反対で補完的な局面は、同時に通過することはなく、連続的に通過して行く。従って、この繋がりが完成するには、それなりの時間経過が求められる。そこでは、貨幣の流れの速度が、与えられた時間の中で、与えられた貨幣断片の動く回数で計測される。4つの品物の流通に1日を要したと考えてみよう。1日に実現された価格総計は8ポンドである。二つの貨幣断片の動いた回数は4回である。流通貨幣の量は、2ポンドである。従って、流通過程期間の、ある与えられた時間の経過において、我々は、次の等式を得る。流通媒体として機能した貨幣の量=商品の価格総計/同一単位のコインが行った動きの回数。この等式は法則として一般性を得る。
(8 ) ある想定上の国で、与えられた期間の間の商品流通の全体は、一つには、数えきれない程の個別のそして同時の部分的変態、買いと同時の売りである、それぞれのコインはただ1度それらの位置を変える。またはただ1回動く。もう一つその他には、数えきれない程の別々に、並列してなされる一繋がりの変態でなっている部分と、それらが互いに合わさった部分でなっている。それぞれの一繋がりの中では、それぞれのコインは沢山の動きをする。その回数は、状況によって大きくもなり小さくもなる。一つの単位で流通している全コインによる、動きの総回数が与えられるとすれば、その単位で見た単コインによる平均移動回数を得る。または、貨幣の流れの平均速度を得る。毎日初めに流通に投入される貨幣量は、勿論、同時に別々に流通する全商品の価格総計によって決められる。しかし一旦流通に投入されれば、コインはいはば互いに原因・結果を有する。もし、あるコインがそれらの速度を増せば、他のそれはそれ自身の速度を対応して遅らせるか、または流通から完全に落ちこぼれる。なぜなら、流通は、単コインまたはその要素による平均移動回数を乗じた時に、実現すべき価格総計となる、黄金のしかるべき量しか保持し得ないからである。従って、もし、別の断片による移動回数が増大すれば、それら全体の断片の流通内の移動回数は縮小する。移動回数が減少すれば、全体の断片量は増大する。流通が抱え得る貨幣の量は、流れの平均速度を与えることで、決まってくるものであるから、流通から、ポンド金貨を削ぎ取るには、(早く手放したくなる)同量のポンド紙幣をそこに投入すればよい。銀行家なら誰もが知っている一つの汚い手である。(( )は訳者の頭脳が余計なお節介を付け加えたもの、 ついでに云わせて貰えば、なんとか給付金もそのたぐいだが、どうにも吐き出す金貨がない。政府紙幣じゃ流通以前に廃棄されるばかりか政府が廃棄されかない。)
(9 ) 貨幣の流れとは、一般的に考えられている様に、単純な商品流通の反射であり、または、それらが行う正反対の変態のそれである。それであるから、また、流れの速度は、商品のそれらの形式の変化の早さを反射する。ある一繋がりの変態と他の繋がりの変態との連続的な絡み合い、社会的な物のやりとりの急迫、流通局面からの商品の早い消失と、同じ早さでの新しいものが、その場所に取って代わる早さ、を反射する。従って、我々は、この流れの速さにおいて、正反対でかつ補足的な局面の統一を、商品の有用局面から価値局面への変換の統一を、また、後者局面から前者への再変換の統一を、売りと買いの二つの過程の統一を、分かりやすい形で把握することになる。ところが逆に、流れの遅滞はこれらの過程を別々の正反対の局面への分離を反射する。商品形式の変化の停滞を反射し、だからまた、社会的な物のやりとりのそれも反射する。流通それ自体は、勿論のこと、その停滞の原因を指し示してくれることはない。それはそれ自体の現象を証拠としてそこに置くのみ。一般の人達は、流れの停滞と同時に、流通周辺から貨幣が現われたり消えたりする頻度が少なくなるのを見れば、普通に、停滞は流通媒体の量的不足のせいだと思うだろう。
(10 ) ある与えられた期間において、流通媒体として機能する貨幣の全量は、一つは、流通商品の価格総計によって決められる。もう一つは、正反対の局面のそれぞれの商品の変態の早さによっている。この早さについては、それぞれの単コインによって実現される平均的な価格総計の全体にたいする比率に依存している。しかし、流通商品の価格総計は、価格に依存しているのと同様、商品の量にも依存している。しかしながら、以下の3つの要素、価格状況、流通商品量、そして貨幣の流れの速度は、すべて変化する。従って、実現される価格総計とその結果としての流通媒体の量は、膨大なこれらの3要素の変化の組み合わせで各様に変わる総計に依存する。我々は、これらの変化の組み合わせの中から、価格の歴史において最も重要となるものの幾つかを考えてみることとする。
(11 ) 価格が一定に留まるとしても、流通媒体の量は、流通商品の数が増えることにより、増大するであろう。または、その流れの速度の低下により増大するであろう。またはその二つの組み合わせにより増大するであろう。一方、流通媒体の量は、商品の数の減少、またはそれらの流通の早さの増加により、減少するであろう。
(12 ) 商品の価格が一般的に上昇したとしても、流通媒体の量は一定に留まるであろう。それらの価格上昇と同比率で流通商品の数が減少するとすれば。または、流通内の商品の数が一定であって、流れの速度の上昇が価格の上昇と同比率であるとすれば。流通媒体の量は、商品の数のより早い減少が生じる場合や、流れの速度の上昇が生じる場合は、減少するであろう。
(13 ) 商品の価格が一般的に下降したとしても、流通媒体の量は一定に留まるであろう。それらの価格下落と同比率で流通商品の数が増加するとすれば。または流れの速度が同じ比率で低下するとすれば。流通媒体の量は、商品数のより早い増加が生じる場合や、流通の早さが価格の下落より急激に低下する場合は、増加するであろう。
(14 ) この異なる要素の変化組み合わせは、互いに補足し合うであろうから、それらの連続的な不安定さは目立たない。実現すべき価格総計や流通内の貨幣量は、一定に留まる。かくて、我々は、特に、長期間を考察するならば、貨幣の量の平均値からの偏差は、いずれの国においても、以下の場合を別とすれば、我々がまず思うよりは、ずっと小さい。定期的に起こる工業恐慌や商業恐慌と言った大きな混乱や、めったに起きない貨幣価値の変動を別とするならば。
(15 ) 流通媒体の量が、流通商品の価格総計により決定され、かつ、その平均的な流れの速度が価格よりもより急激に上昇することで制約されるという法則は、次のようにも云うことができよう。与えられた商品の価値総計と、それらの平均変態早さ、貨幣として流れる貴金属の量は、その貴金属の価値に依存している。
だがこれとは違って、次のような、間違った見解を持つ人も現われる。価格は、流通媒体の量によって決められる。そして後者の量は、一国内の貴金属量に依存している。と。この見解を最初に述べた人物の目には、さらにその他の追従者達の目には、不合理な仮説が見えていないようだ。商品には価格がなく、貨幣にも価値がない、それらが流通に参入したその最初においては。そしてどう言う分けか一旦流通に参入したならば、商品の一定分量が、積み上がった貴金属の山の一定分量と交換される。と。
C. コイン(鋳貨)と価値の符号
(1 ) 貨幣は、流通媒体としての機能から、コイン(鋳貨)の形を有するようになる。価格または商品の貨幣名で観念的に表される黄金の重量は、流通において、コインの形として、または与えられた単位の黄金断片として、それらの価格の商品と直面せねばならない。コイン鋳造、価格基準の確立といったものは、国の仕事である。国が違えば、黄金や銀がコインとしてそれぞれ違った制服を身に付けている。世界の市場では、その制服を脱ぐ。であるから、商品流通の内部的または国内の局面と、その世界的局面との分離を表示するようにもなる。
(2 ) 従って、コインと金の延べ棒との違いは、ただその形だけである。黄金は、いつでも、ある形から他の形へと移ることができる。とはいえ、新鋳を離れれば直ぐに、溶解再鋳造への高速道路上にいる自分自身を見ることになる。流通期間中に、コインは磨耗する。あるものはかなり、他のものは多少少ないが。名目と実体、名目的な重量と実重量、分離の過程が始まる。同じ単位をもつコインが違った価値となる。なぜなら、それらは重量が違うからである。黄金の重量は、価格の基準として決められている。流通媒体の役を果たす重量からの逸脱は、当然ながら、遅かれ早かれ、商品の価格を実現する正しい等価としてはもはや機能しえない。中世から18世紀までに至る鋳貨の歴史は、この原因から起こる 常 新たなる混乱を記録している。コインを、それらが公言するものを単に表すだけの外観と見なすという流通上の自然な傾向、それらを公式的に含有していると想定される量の表象となすという傾向は、近代の法律では認めているところである。法律が、金貨の資格を失うだけの磨耗量を定めるとか、またはもはや法的な番人としないと決めるとか。
(3 ) コインの流れそのものが、それらの名目とそれらの実重量とを分ける効果を有するという事実から、単なる金属断片を一方に、他方にコインの明確な機能を作る。この事実は、コインと同じ目的の役目を果たす表象、つまりある他の材料による代用物で金属コインを置き換えるという潜在的な可能性を意味する。極めて僅かな量の黄金または銀の鋳造上の実際面での難しさ、また最初において、より貴重とはいえない金属が価値の尺度として、より貴重なものに代わって、銀に代わって銅が、金に代わって銀が、貨幣としてより貴重でないものの流通が、より貴重なものによって、押し出されるまでは、使われていた状況がある。これらの事実は、金貨の代理として、銀や銅での代用貨幣が、歴史的にその役割りを果していたことを説明している。銀や銅の代用貨幣は、コインが手から手へ最大速度で動くという流通が行われ、最大量の磨耗と破断が想定される地域では、金貨に取って代わる。このことは、売りと買いが、いつも非常に小さな規模でなされている場所で生じる。黄金の領域内で、これらの衛星的断片によるそれらの永久的な確立を防ぐために、黄金に代わって、受け取らなければならない支払い範囲を逆に強制的な制定をもって決めている。特定の取引場所では違った種類のコインが使われており、自然に相互に流れ込むこともある。代用貨幣は大抵黄金とともに使われ、その最小単位の金貨幣のさらに細かい部分を支払うために用いられている。黄金は、一方で、常に小売り流通に注ぎ込まれているが、他方では、代用貨幣に代わられて常に弾き出されている。
(4 ) 銀や銅の代用貨幣の重量は、恣意的に法によって定められる。流れの中では、それらは、金貨よりも早く磨耗する。であるから、それらの機能は、重量から完全に独立し、価値そのものの如きものとなる。コインとしての黄金の機能は、黄金としての金属価値から完全に独立する。従って、それらのものは、価値のない相対的なものとなる。丁度その場でコインの役を果たす紙幣のように。この純粋なシンボル的性格は、金属代用貨幣に、ある量まで刻印される。紙幣はかくて明瞭に自立する。事実は、ただ最初の一歩が厄介なだけ。(色が変わっている部分は、フランス語 訳者注)
(5 ) 国が発行し強制的に流通させている不換紙幣についてのみ、我々はここで言及する。それは、金属貨幣流通に直接的に起因している。信用による貨幣は、これとは別の条件で、単純な商品流通の見地に基づいている。だが、このことの全体は、我々は今のところ、知っていない。しかし、我々は次のことは、はっきりと断言するであろう。真の紙幣といったものは、流通媒体としての貨幣の機能に起因する、そしてそのように云うならば、信用に基づく貨幣は、その起源を自発的な支払い手段としての貨幣の機能に持つと。
(6 ) 国は、紙切れを流通に置く。その紙切れには、様々な貨幣名称が印刷されている。1ポンドとか5ポンドとか、その他にも。現実に同じ名称量の黄金の位置を占め、その限りにおいて、それらの動きは、貨幣自身の流れを規制する法に従わねばならない。紙幣流通の特異な法は、ただ黄金を表す紙幣の割合から発することができる。そのような法が存在する。簡単に云うならば次のようなものである。紙幣の発行量は、黄金の量を(場合によっては銀の量と言えるであろう。)越えてはならない。その黄金の量とは、もし表象によって置き換えられないとした場合に、実際に流通するであろう量のことである。またここでは、ある与えられた水準量に対して常に変動するも、流通が保持し得る黄金の量のことである。ある想定上の国の流通媒体の全体量は、今も、実際の経験によれば、容易に確かめられるある最低量を下回ったことはない。事実として、この最低量の構成部分が常に変わっても、または、その中の黄金断片が常に新たなものに置き換わっているとしても、それらの量または流通の連続性には何の変化も生じない。従って、紙の表象に置き換えることができるのである。他方、もし仮に、全ての流通導管が今日、紙幣で、流通保持可能量一杯まで詰め込まれたとすれば、商品流通量の微変動によって明日には溢れ出すことになるであろう。もはや標準がなくなる。もし紙幣が適切限界、実際に流れることができるそのような単位の金貨の量 を越えたとしても、一般的悪評に陥る危険を別とすれば、商品流通の法に従って、求められ かつ唯一紙幣に表されることができる黄金の量をただ表す。だがもし、紙幣が実際にあるべき量の2倍発行されたとしたら、実際のところ、1ポンドなる貨幣名は1/4オンスではなく1/8オンスの黄金を意味することになろう。あたかも、価格の基準である黄金の機能が変更されたのと同じ影響が生じる。黄金の価値が以前は1ポンドの価格であらわされていたものが、今度は2ポンドの価格で表されることになろう。
(7 ) 紙幣は、黄金または貨幣を表す代用貨幣である。これと商品の価値との関係は、以下の通りである。後者は観念上同量の黄金で表され、黄金の量は表象的に紙幣で表される。ただ紙幣は、黄金を表す限りにおいてのみ、他の全ての商品が価値を持つように、価値の表象なのである。
(8 ) 誰かが、なぜ黄金が、最終的に、価値のない代用貨幣で置き換えられることができる様になったのかと、尋ねるかも知れない。当然我々はすでに見て来たところである。それが置き換えられることができるのは、コインと全く同じに機能する限りであり、流通媒体として機能する限りであり、他のなにものでもない限りである。今、貨幣は、この他に、別の機能を持つ。その単に流通媒体としての役割を果たす隔離的な機能は、すり減ったが、依然として流通を続ける金貨に取りつくという必要性があるわけではない。それらの個々の貨幣は、ただ現実に流通している限りにおいては、単にコインであり続けるし、または流通手段であり続ける。しかしながら、黄金の最低量の大きさに関する場合は、紙幣によって置き換えられる可能性がある。その最低量なるものは、常に、流通局面の中に留まり、切れ目なく流通媒体としての機能を果たし、この目的のための排他的な存在となる。従って、その動きは、C-M-C なる変態の逆向きの局面の交互の連続的なものを表す以外のなにものでもない。その局面では、商品はそれらの価値形式に直面し、ただ直ぐに消えるのみ。商品の交換価値としての独立した存在は、ここでは、商品が直ちに他の商品によって置き換えられるのであるから、瞬間的な幻影となる。かくて、連続的に貨幣を手から手へ移すこの過程においては、貨幣は単なる表象的存在で事足りる。その機能的存在が、いわば、物体的な存在を取り入れる。商品の価格の瞬間的かつ客観的反射であるから、それは、自身の表象としての役割りのみを果している。従って、代用貨幣で置き換えられることが可能となる。とはいえ、以下のことは必須である。代用貨幣は、それ自身の社会的正当性を客観的に持たねばならない。この表象紙幣はその強制的な流れを確保しなければならない。国によるこの強制的作用は、共同体の境界線上までの内部流通局面でのみ効力を持つ。ただし、同様に貨幣が流通媒体の機能を完全に発揮するか、またコインたりうる域内でのことである。
訳者余談を入れることにした。その理由は、紙幣の登場に由来する。我々の生活では、銭といえば、1万円札の束、つまり紙幣である。これでほっぺたをぶたれても、貰えるならば、痛くも痒くもない。恥も名誉もなくなる。大抵は貰えないのであるが。その僅かな瞬間の思考は神も仏も先祖も次世代も忘れてしまう。地球がなくても生きられる思考回路を頭脳が作りだす。いやそんなバカなことを余談とするバカはいない。
ここでは、兌換紙幣を述べているが、不換紙幣も登場している。現社会では、もう兌換紙幣は存在していない。すべて各国によって制度化された不換紙幣ばかりである。だからマルクスは古いと云うらしい人がいる。この不換紙幣を国家紙幣と書き表したら、兌換紙幣との違いが不明瞭になるのは明らかだろう。不換紙幣を全て国家紙幣と書くなら、それも一見だが、不換紙幣と国家紙幣が同居すると、いらぬ検討を強いられることも生じる。英文は明瞭でこのような問題発生はない。マルクスが、今のところは詳述してはいないがとして、不換紙幣の特別な条件を指摘しているのは、当該の訳を読んだ人なら当然分かることだが、ある訳本の本文では、これを、国家貨幣と書いている。これを読めば、不換紙幣をマルクスが知らないということになりかねない。仮に注に不換紙幣が登場していても見落とせば、そうなる。混用に気がつけば、多分 かな と推測できる場面もあるかも知れないが。それも難しいだろう。
たしかに、マルクスがリーマンブラザーズのなんとか云う不換紙幣以下の証券を抱えて、何かを云うことはできないが、すでにそうなる資本主義的生産様式の発展過程を1857−8年のアメリカ震源の世界恐慌を分析して、それが繰り返されることをも指摘していることを知れば、分析的把握を得る能力を持てることとなろう。英文を読むことが早道なのである。私の英文和訳には国家紙幣はない。古いと遠ざける理由はここにはない。訳者としては余談ならぬ余祿に恵まれている。
第三節
貨幣
(1) 価値尺度として機能し、かつ本人自らまたは代理人をも含めて、流通媒体である商品は、貨幣である。黄金(または銀)は従って貨幣である。己の黄金の本人としてあるべき時は、まず一つは貨幣として機能する。そして、単なる観念上の価値尺度の機能を示すことも無く、流通媒体の機能を表すこともできない場合は、貨幣商品である。他方、本人あるいは代理人のいずれが行う機能であろうと、機能を有するがゆえに、全ての他の商品により表される使用価値の反対側にある、ただ適切な交換価値の存在形式である、唯一無二の価値形式に、凝結している時、それは同様に貨幣として機能する。
A. 退蔵
(1 ) 商品の、正反対の二つの変態の回路での絶え間ない動き、または、売りと買いの止まることのない交互は、休みない貨幣の流れ、または、流通の永久運動をなす貨幣の機能の中に表されている。(色が違っている部分は、ラテン語、イタリック体で強調されている。訳者注)
しかし、一連の変態が阻害されると直ぐに、売りがそれに続く買いによって連結されなければ直ぐに、貨幣は動かされることを止める。ボワギュベールが云う様に、家具から建築物へと変形する。動かせるものから動かせぬものへ、コインから貨幣へとなる。(色が違っている部分は、フランス語 訳者注)
(2 ) 商品流通が発展するそのほとんど最初から、そこに同様、最初の変態の産物を堅く握りしめて置きたいと云う必要上の必然性と熱烈なる欲望もまた発展させられた。その産物なるものは商品の変形した姿であり、その黄金の皮を被った固まりである。(色が変わっている単語は、necessity, chrysalis(蛹) をあえて大げさに訳したところである。訳者の訳のサービスのつもり、多分これならへんてこな誤解は避けられているであろう。)
商品は、これらのことから、他のものを買う目的のためには売られなかった、ただそれらの商品形式をそれらの貨幣形式に置き換えるためにである。商品流通をなし遂げる単なる手段であるものから、この形式の変換が最終目的となる。この商品形式の変換は、かくて、条件なしに譲渡可能な形式としての、またはその単なる瞬間的な貨幣形式としての機能を差し止められる。貨幣は、退蔵物へと固められる、そして売り手は、貨幣の退蔵者となる。
(3 ) 商品流通の初期の段階では、余剰の使用価値だけが、貨幣に変換された。従って、金や銀は、それ自身で、社会的な余剰または富を表すものである。この素朴な退蔵形式が、狭い地域の欲求に対する固定化した供給のために行われる伝統的な生産様式の集団においては、永続されるものとなる。それはアジアの人々のそれであり、特に東インド人に見られる。バンダーリントは、ある国の商品の価格はそこに見出される金と銀の量で決定されると仮想するのであるが、次のように自問自答する。何故、インド商品はこのように安価なのか?と。答えは、ヒンズー人はかれらの貨幣を埋めるからであるという。1602〜1734年にかけて、彼等は1億5千万ポンドのイギリス銀貨を埋めた。その銀貨の出所は、アメリカからヨーロッパに来たものである。1856〜1866年の10年間では、イギリスはインドと支那に1億2千万ポンドの銀を輸出した。これらはオーストラリアの金と交換して受け取ったものである。ほとんどの銀は支那に輸出され、それのインドへの道を作った。
バンダーリントを弁護したくなった。訳者余談である。銀貨を埋めている現場を見たわけではなさそうである。見た物はなんだったのか。イギリス王家に提出された重商主義者の申告書であろう。莫大な商品を、それなりの銀貨で購入し、それを売っての収支報告である。計算すれば平均商品単価はいつも変わらず安い。インド人に渡った銀貨から見れば、彼の仮想空間では、価格の上昇が見られるという結論なのに、それが見出されない。従って、銀貨はなんら価格に影響を及ぼさないのであるから、捨てるのでない限り埋めるとなる。埋めた銀貨を掘り出そうという発想がないところが、貧乏人とは違う。さすがに王家お抱えの経済顧問である。さて、金や銀がグローバルに闊歩したのは知っているようだが、そこまででは重商主義者達の絶妙な貨幣捻出の技と強引な商売に触れることはできない。金の価値を銀の重量で支払う詐術や銃による強奪は見抜けない。だれかが裏で当該植民地から銀を回収・退蔵したとしてもである。彼の理論は、このため残念ながら実証も訂正もされるはずがない。マルクスに歴史的資料を提供するだけのものとなった。訳者の最終弁護としては、ミクロとかマクロとかの金融政策(ゼロ金利とか)と財政政策(赤字国債とか)で価格が決まるという理論ではないところがいいか。
(4 ) 商品生産のさらなる発展により、あらゆる商品生産者は、確かなる諸事物を結びつける物、または社会的な抵当物を作ることを強いられる。(色が変わっているところは、nexus rerum なる単語の訳であるが、マルクスが貨幣を表す意味で、ラテン語とフランス語を混ぜて作ったような独特の単語のようである。訳者の注。これについては、マルクスのロシア語版『経済学批判要綱』のロシア語訳者の注に説明がある。静岡大学の山本義彦教授が、その注を和訳しており、その中の90に見ることができる。もう少し広い意味でも使っているようで、興味深い。下のリンクで。)
http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/2333/1/080613003.pdf
彼の欲求は、次から次と、それ自体の存在を痛感させ続ける。だから、他の人々の数々の商品を買い続ける。だが彼自身の側の品物の生産と販売は時間を要し、また状況に左右される。従って、売りなくして買うために、彼は買うことなく、前もって売って置かねばならない。この事は、一般的に行われるならば、矛盾している。しかし、貴金属は、それらの生産現場では、直接的に他の商品と交換される。ここには、(黄金または銀の所有者による)買い を欠いた、(商品の所有者による)売り がある。
この部分の本文注: "範疇"としての意味で買いと云うならば、黄金や銀は既に、商品形式を変換しており、または、売りのための生産物と言える。
そして、更なる、他の生産者達の、買いなくして生じた売りは、商品の所有者達の全てに対する、新たに生産された貴金属の単なる分配と言うことになる。この方法、全てがこの形の交換に沿うならば、様々な広がりをもって、黄金や銀の退蔵品が積み上がる。交換価値の、特定の商品の形での保有と貯蔵の可能性は、また、金銭欲をも生起する。流通の拡大に応じて、我々の面前に現われた、圧倒的とも云える社会的な富の形式、貨幣の力が増大する。「黄金は素晴らしいもの、誰が持とうと、それは彼の欲求全授の神となる。黄金を以てすれば、誰でも天の楽園に魂を持ち込むことができる。」(1503年 コロンブスのジャマイカからの手紙に) 黄金は、何がこれに変形したのかを開示しないのだから、ありとあらゆるものが、商品であろうとなかろうと、黄金に変換可能である。あらゆるものが売ることができるものとなり、また買うことができるものとなる。流通は、その中に投げ込まれたあらゆるのものが、再び黄金の結晶で出てくる巨大な社会的レトルトとなる。聖人の骨ですら、それとは違うが、優美な聖なる特別の人間の捧げ物も、勿論、この錬金術に抵抗することはできない。(色が変わっているところは、res sacrosanctae, extra commercium hominum なる単語の訳である。ラテン語らしい。 訳者の推測的注。本文のこの部分にある注の後段部分の、次の内容が該当するものと思われる。愛の女神の祭りに、外国商人に身を捧げて貨幣断片を受け取る処女が得たそれを、神に捧げる生贄とした。)
商品のあらゆる質的な違いは、貨幣においては、立ちどころに消え去る。だから貨幣は、その側面からは、急進的な平等主義者のごとく、全ての差異を除去する。だが、貨幣自身は、商品であり、永遠の物であり、いかなる個人の私的所有物ともなることができる。こうして、社会的な力が、私的人間の私的な力となる。古代人達は、であるから、貨幣を、経済と物事の秩序を破壊するものと弾劾する。近代社会は、生まれて間もなく、大地の窪みから、プルートスを、髪の毛を掴んで引きずり出した。その成り立ちのまさに原理の化身なるぎらぎらと輝くものを、そこに聖杯を見るごとく、黄金を迎え入れる。
(5 ) 商品、そこに使用価値なるものを抱容するもの、は、特定の欲求を満たす。そうしてまた、物体的な富の特定の要素でもある。しかし、商品の価値は、その他の全ての物体的な富の要素の吸引力の度合いを示す。従って、所有者の社会的富の大きさを示す。商品の所有者である未開人は勿論、西ヨーロッパの農夫にとってさえ、価値は同じ価値形式である。そして従って、彼にとっては、彼の退蔵する黄金や銀の増加は、価値の増加である。当然のことながら、貨幣の価値は変化する。ある時は、自身の価値の変化によって、またある時は、商品の価値の変化の結果として。ではあるが、一方、この事が、200オンスの黄金が100オンスのそれよりも価値が大きいことを妨げることはない。また他方、現実のこの品物の金属なる形を、他の全ての商品の世界等価形式であることを邪魔することもないし、また人間の労働の直接的社会的具体化物であることをも邪魔するものではない。退蔵に次ぐ退蔵の欲望はその性質上満足させられることがない。その量的な点では、誰が考えても、貨幣にはその効用に対する束縛がない。すなわち、それは、直接的に、他のいかなる商品にも変換できるのであるから、物体的富の世界的代理なのである。だが同時に、あらゆる現実の貨幣の総計は、ある量に限られる。従って、買いの手段としては、限られた効用しか持たない。この貨幣の量としての限界と、質的にはなんら束縛がないという対立が、退蔵者にとっては、シジフォスに課されたような繰り返し労働への槍となる。彼にとっては、まさに、あらゆる新たな属国がただ新たな国境となる征服者のごときものとなる。
(6 ) 黄金を貨幣として保持して置くためには、退蔵を形成するためには、それを流通から防御しておかなくてはならない。または、それが享楽の手段に変じてしまわないように防御しておかなくてはならない。退蔵者は、従って、黄金崇拝のために、肉欲を犠牲とする。彼は、慎みの福音に熱心でなければならぬ。他方、彼が流通から回収するものは、商品として、そこに投入したもの以上のものはない。より生産すれば、より売ることができる。よく働く事、節約する事、そして黄金欲、これが彼の基本的美徳である。沢山売り、ほとんど買わずが彼の経済学の全てである。
(7 ) なまの退蔵形式とは別に、黄金や銀の品々の美的形式での所有もまた見出す。市民社会の富がこんな形で成長する。我等を富ましめよ、さもなくば、我等をして富を表してみよ。(ディドロ)(色が変わっているところは、フランス語。 訳者注)
(8 ) 一方においては、この様な成り行きで、貨幣としての機能とは無関係に、黄金や銀の市場が形成され、絶えず広がって行く。また、他方においては、隠れた供給源であって、危機の時期や社会的な混乱の場合には、これらに頼ることになる。
(9 ) 退蔵は、金属流通の経済において、様々な目的を果たす。その第一の機能は、金貨と銀貨に係わることで、その流通の条件から生起する。我々が見て来た様に、商品流通の広がりと早さ、そしてそれらの価格における微変動に応じて、貨幣流通の量がどのように引き潮 満ち潮を絶え間なく繰り返すことか。従って、この大きさは膨張したり収縮したりすることができねばならない。ある時は、流通コインとしての役割のために、貨幣は引き寄せられねばならない。またそうでない時は、流通コインは多少なりとも流通しない貨幣としておくために、退けられねばならない。現実に流れているところの、貨幣量の大きさが流通の含有力を常に一杯に満たして置けるかどうか、そのためには、一国内の黄金と銀の量は、コイン機能として求められる量以上であることが必要である。この条件は、退蔵形式にある貨幣によって充足される。この貯水ダムが流通へまたは流通から、供給または回収のための導水路の役目を果たす。これによって、これらは堤防から溢れ出すことはありえない。
こちとらぁ、宵越しの銭は持たねえ。というせりふが、古典落語にはよく登場する。貧乏人の退蔵拒否宣言・それに高利貸しへの羨望と嫌悪も多少含まれている。だがよく考えてみれば、訳者余談となる。そこでは、誰もが宵越しの銭を持たねえ分けにはいかねえ。誰かが持つというのが宵の道理だろう。芝浜という古典落語がある。人情ばなしで、女房の機転というか智恵と云うか、涙と笑いがあり、長い話である。小三治の語り口は、長い枕があって、この話にいつしか入り込むと、金貨のたっぷり入った財布を拾う。仲間との酒の散財があって、目を覚ますと女房が夢でも見たんでしょうと、銭が消える。落ちを云うほど野暮ではないが、この話はこの後が戴けない。女房は銭を大家と相談して、番所に届ける。多分世の中は、ここまでで、話は続かないはずだからだ。その銭が戻ってくるか! 話は銭が戻ってきて落ちも待っている。 が、番所は取り上げる、返しはしない。仮に返したとしたらその銭は、十中八九 高利貸しの銭箪笥の中まで行くだろう。高利貸しは、国債を買うか、外貨に変えるか、サブプライムローン組込み債権を買うだろう。もう話は聞きたくもなくなるはずだ。幕府が補填して、どうにかなったとしてもだ。古典落語は聞きたくない。面白くない。そんなバカな女房はいないだろうが。ど〜だ、余談だけのことはあるだろ。
B. 支払いの手段
(1 ) これまで見てきた商品流通の単純形式においては、我々は、与えられた価値がいつも我々に二重の形で表されているのを見た。商品として一つの極に、貨幣として反対の極に。商品の所有者達は、従って、それら既に等価であったもののそれぞれの代表者として、相対した。しかし、流通の発展に伴って、商品の譲渡がそれらの価格の実現から時間的に分離されるという状態が生じる。これらの最も単純な状態のいくつかを示せば、それで十分であろう。ある一つの商品は、その生産のために長期間を要するが、他のそれは、短期間で生産される。またある場合、異なる商品の生産は、その年の異なる季節に依存している。ある種の商品は、市場の地域で生まれるかもしれないが、他のものは、市場まで長い旅をしなければならない。であるから、商品所有者No.1は、No.2 が買う準備ができる前に、売る準備ができているかもしれない。同じ取引が同じ人間によって、いつも繰り返し行われているならば、売りの状態は、生産の状態に応じて決められるであろう。これとは別に、与えられた商品の使用に関しては、例えば家だが、この場合はある期間が売られる。(普通に云えば、貸家はということ。) この場合は、まさに、期間終了時に買い手は実際にその商品の使用価値を受け取る。従って、彼は、それを彼が支払う前に買っている。売る側は、手持ちの商品を売るが、買い手は、単に貨幣の、あるいはどちらかと云えば将来の貨幣の代表者として買う。売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。商品の変態、またはそれらの価値形式の発展が、ここで、新たな局面を現わしたのであるから、貨幣もまた、生まれたばかりの機能を獲得したのである。それが、支払いの手段として現われる。
(2 ) 債権者または債務者の性格は、ここでは、単純な流通から決まる。そのような流通形式の変化が、買い手と売り手に新たな型を押印する。従って、最初のうちは、この新たな役は、ちょっとした 一時的で、交互の、売り手と買い手のそれのようなものである。しかし、その対立関係はまあそう楽しいものではなく、立ちどころに堅く固まりやすいものなのである。
(本文注(一部)では、この固まりを「残虐の精神の支配」という文字で説明している。訳者注)
とはいえ、この様な性格は、商品流通からは独立したものと考えることができる。古代世界の階級闘争は、主に、債務者と債権者の抗争の形式を取っていた。ローマでは、平民 債務者の崩壊をもって終わった。彼等は奴隷と置き換えられた。中世の抗争は、封建領主 債務者の崩壊で終わった。彼等は、それを成立させていた経済的基礎とともに、彼等の政治的力を失った。これら二つの時期に存在している、債務者と債権者の貨幣的関係が、二つの階級存在の各一般的経済状態の中の、その底流となる敵対関係を反映するのは、疑問の余地がない。
訳者余談が早まった。階級関係を、債務者と債権者という形で現わした部分であって、資本家 -労働者 の階級対立をも明示している。先行の二つの歴史に続く新たな崩壊は疑う余地がない。だが、労働者がなぜ債権者なのか、資本家が債務者なのかここではまだ明解ではない。以後の記述を一層読みたくなるではないか。いやこんなことを余談にしたいのではない。英文の方の話である。この部分を簡単に書けば、Nevertheless A reflected B of the classes in question.となる。これを訳者は、Aは、B (の階級云々)を反映する。疑問の余地はない。と訳したのである。残念ながら、ドイツ語版からの向坂氏訳は、「ただ、もっと深いところにある経済的生活諸条件の敵対関係を反映しているにすぎない」となっている。in questionもそうだが、なんともったいないことをしているんだと思う。ムーア氏訳との落差が端的に出たところである。敵対関係と訳すだけで、of the classes という語が訳されていない敵対関係では、資本論が半分眠ってしまうではないか。英訳の迫力には心拍の音がある。
(3 ) 商品流通に戻ってみよう。二つの等価の外観、商品と貨幣は、売りの過程の二つの極において、いま、同時に起こるべきものであることを止めている。ここでは、貨幣は第一に、売られる商品の価格を決めることで、価値の尺度として機能している。契約で確定された価格は、債務者の義務を表しており、その貨幣総計を、彼は、決められた日に支払わなければならない。第二に、買いの観念上の手段として役割を果たす。買い手の支払いの約束としてのみの存在ではあるが、商品の持ち手を変えることになる。支払いの手段が現実に流通に入るのは、つまり、買い手の手を離れて、売り手の手に行くのは、支払いが決められた日以前ではない。流通媒体は退蔵に変形する。なぜならば、最初局面の直ぐ後、その過程を停止した。なぜならば、商品の変化した形、すなわち、貨幣は、流通から引き下げられた。支払いの手段が流通に入るのは、実際のところただ商品が流通を離れた後である。貨幣はもはや過程を進めない。交換価値としての存在の絶対的形式として、または究極の世界商品としても、踏み込むこともなく、ただ閉じる。売り手は彼の商品を貨幣に変えた、それで何らかの欲求を満足させるために。退蔵者は、同様、彼の商品を貨幣の形で保持するために。債務者は、支払いができるように。彼が支払わないとなれば、彼の品物は執政官によって売られることになろう。商品の価値形式、貨幣 は従って、今、売りの究極の目的となる。流通自身の過程から発現する社会的必要性を担う。
(4 ) 買い手は、商品を貨幣に変える前に、貨幣を再び戻すがごとく商品に変化させる。別の言葉で云うならば、彼は、第一の変態の前に、第二の変態を完成させる。売り手の商品は流通し、またその価格を実現する。しかしただ貨幣を法的に請求する形において実現する。それは、貨幣に変換される前に、使用価値に変化させられる。第一の変態の完成は、ただ後の時期にになって追ってくる。
(5 ) ある与えられた期間内に満期となる債務は、その債務の基となった商品の売りの、商品価格総計を代表している。この総計額を実現するための必要な金は、第一の例は、支払い手段の流れの速度に依存している。その量は、二つの状況によって条件づけられる。まずは、債務者と債権者の一種の繋がりの関係で、次のような場合。Aが彼の債務者Bから受け取ったら、それを即座に、彼の債権者Cに手渡す、以下その様な順で、と云った場合。第二の状況は、債務の、異なる満期日間の間隔の長さということである。支払いの連鎖、または、遅らされた第一の変態 は、以前のページで考察したところの、変態の絡み合った繋がりとは、本質的に、違ったものである。売り手と買い手の間の繋がりは、流通媒体の流れではとても表せない。この繋がりはただ流通から発生させられ、流通内に存在する。反対に、支払い手段の動きは、長く以前から存在した社会的関係を表す。
(6 ) 事実、沢山の売りが同時に行われ、またそれがその脇でも次々に行われることが、コインの次々に流れの速度で置き換わっていくことの広がりを制限する。だが一方、この事実が支払いの手段の節約の新たな梃子となる。支払いがある一カ所に集中される比率が高まると、特別な制度とか方法がそれらの決算のために発展させられる。中世のリヨンの振替である。((色が変わっているところは、virements フランス語 virements internes 内部振替: 会計用語)
Aに支払うBの債務、BにCの、CにAの、以下同様、が受け取り量、支払い量を一定程度まで無効にするよう、お互いに突き合わせればよい。そうすれば、そこには僅かな差額分の支払いしか残らない。支払いに集められた量が大きければ、それだけ差額部分が小さくなる。流通内の支払い手段の大きさも小さくなる。
(7 ) 支払い手段としての貨幣の機能は、真ん中部分がない両端だけの矛盾を意味している。(色が変わっているところは、terminus mediusラテン語)お互いの差額部分の支払いの範囲ならば、貨幣の機能は、ただ観念上の貨幣勘定であり、価値の尺度である。現実の支払いがなされねばならぬというならば、貨幣は流通媒体としての役を果たさず、単なる生産物のやりとりでの一時的な代理人の役も果たせない。ただ、社会的労働の独特の化身として、交換価値の存在を示す独立した形式として、世界商品としての役を果たす。
この矛盾は、金融恐慌として知られる、工業と商業の恐慌の局面で、頂点に達する。
本文注: この本において、記される金融恐慌は、まさに恐慌中の恐慌そのものである。特定の恐慌、同様に金融恐慌と呼ばれるものの、間接的に工業と商業に反応するような独立した現象から作り出されたようなもの、とは明白に区別されねばならない。この恐慌の要点は、資本家の資本に見出される。従って、それらの直接的運動の局面は、資本の局面である、すなわち、銀行、証券取引所、そして財政に見出される。
(色が変わっているところは、moneyed capital。訳者余談どころの話ではない。リーマンブラザーズ金融破綻そのものやその関連にあるクライスラー・GM・AIGの破綻、100年に1度の不況を、第三章 第三節で明言しているのである。オバマ・麻生財政にまでもすでに言及しているではないか。読書の速度をさらに上げたくなるであろう。)
このような恐慌は、ただ、どこまでも続く長い支払いの繋がりがあり、それらが人為的なシステムとして敷衍しており、完璧に発展した所だけに発症する。一般的かつ拡張的なこのメカニズムの攪乱があればいつでも、なにが原因となろうと、貨幣は突然 直接的に、単なる観念上の勘定貨幣の形から、あるべき姿の厳しい現金となる。( 色の変わっている部分の原文は、hard cash) 卑俗な商品は、もはやそれを置き換えることはできない。商品の使用価値は、役立たない。価値は、それ自らの独立した形式の存在のまま消失する。恐慌前夜、ブルジョワジーは、繁栄の酔いにまかせた自己満足で、貨幣はただの想像以外のなにものでもないと宣言したものだ。商品だけが貨幣であると。だが、今は違う。あらゆる場所で叫んでいる。貨幣だけが商品だ ! 牡鹿が水を求めてあえぎ回るように、彼の魂は、貨幣を求めてあえぎ回る。それだけが富となる。恐慌では、商品と、その価値形式 貨幣という正反対のものが、絶対的な矛盾としてその頂点を表す。従って、このような場合では、貨幣が表す形式など なんの重要性もない。貨幣飢餓が続く。支払いは金であろうと、信用貨幣、銀行券であろうと、遂行されねばならない。(訳者緊急余談、 世界の如何なる札であろうと。だから、世界はこぞって、税金からの供給可能枚数を申告しあった。)
(8 ) もし、いま、与えられた期間において流れている貨幣総合計を考えると、我々は、流通媒体の流れ及び支払い手段に与えられた速度において、それが、実現される価格の総計+期限がきた支払い総計−互いに精算相殺される額−最終的に、同一コイン断片が流通手段と支払いの手段となる循環量 に等しいことが分かるだろう。この様になれば、各価格、流れの速度、それに支払いの相殺手続きの広がり が与えられたとしても、与えられた期間、仮に1日として、その時に流れている貨幣量と流通商品量はもはや一致しない。流通から引き下ろされてすでに長い期間を過ぎた商品を代表する貨幣が流れ続けている。商品達、その貨幣等価がある未来の日にしか表れないのに、その商品達が流通している。それ以上である、債務は日々契約され、日々満期となる支払いもある。相互の量は全く均衡しているというものではない。
(9 ) 信用貨幣は、支払い手段としての貨幣の機能から直接的に飛び出してくる。商品の購入によって生じた債務証書は、他への債務の譲渡を目的に流通する。他方、信用制度が広がれば、それに応じて、貨幣の支払い手段としての機能も拡大する。その性格から、様々な形式をつくり、大きな商業取引においては、取引を牛耳る特異な存在となる。金貨や銀貨は、余波を受けて、小売り取引へと、その地位を追われる。(本文注には、ロンドン最大の商会の一つ、モリスン・ディロン商会の年貨幣収入と支出の報告書が示されている。ほとんどが手形・銀行券(イングランド銀行、その他の地方銀行)・小切手であって、金・銀貨は収入のわずか3% 支出の1%とある。)
(10 ) 商品生産が自身を十分に拡張すれば、貨幣も、商品流通の局面を越えて、支払いの手段としての役割を強める。商品はあらゆる契約の中の世界的主要事項となる。地代、租税、そして支払い類似のものは、物納の支払いから、貨幣での支払いに変化する。どこまでこの変更が広がるかは、生産の一般的状態に依存している。このことは、一つの例として、ローマ帝国が試みた年貢を貨幣で徴収しょうとした二度の失敗の事実からもよく分かるところである。ルイ十四世下の農民の、話すことも出来ない悲惨、その悲惨さは、ボワギュベール、ボーバン元帥、他が、感銘的な批難を展開している。税の重さもその原因であるが、その税を物納から貨幣による納税へと変更したからである。(本文注にある「貨幣は、こともあろうに、刑の執行人となった。」という ボワギュベールの言葉、フランス語、が、状況をよく説明している。訳者注)
アジアにおいては、他方、事実上、国税は主に物納地代で構成されており、自然現象の法則による再生産という生産状態に依存している。そして、この支払い様式が、まさにそれゆえに、古い生産形式の維持を継続せしめている。これがオスマントルコ帝国維持の一つの秘密である。もし、ヨーロッパによる外国貿易が、日本に、物納地代を貨幣地代に替えることを強いるならば、その国の模範的な農業は、もはや成り立つまい。農業が続けられてきた狭い経済状態は一掃されるだろう。(まさに、現在の日本の状況、農業や林業の状態、に至っている。資本主義的戦争を経由して。訳者のやむにやまれぬ追記)
(11 ) あらゆる国で、一年のうちのある日々が、多様で大きな、そして頻発する支払いの決算日として、習慣的に、認識されるようになる。これらの日時は、もろもろの再生産車輪の革命からではなく、季節に深く関係する状態から決まってくる。それらは、また、商品流通、租税とか地代とかその他等々とは直接関係なしに、支払い日を規定する。この支払いを行うために必要な貨幣の量に、それらの日々に満期となる国中で、周期的に、支払い媒体の相殺に際して、単に表面的というべきものにすぎないものの、変動を生じる。
(12 ) 支払い手段の、流れの速度 の法則から、全ての周期的な支払いから求められる支払い手段の量は、その出所を問わず、それらの期間の長さに反比例することが知られる。
(訳者注:この反比例という英文本文に、ムーア氏ではなく、ネット公開した側の編者が注を付けている。inverse は筆の誤りで、ラテン語の faverse で、direct の意味である、という。つまり正比例が適切だと云う。向坂氏も1〜4版では「逆」となっているとディーツ版編集者の注を引いて、正比例としている。だが、当該英文の和訳をしている訳者としては、当然反比例でなくてはならない。単純に支払い期間が長くなれば、支払い手段の速度は相対的に繰り返されるのだから、期間当りで速くなる。当然相殺量が増加する、従って、支払い手段量は縮小する。全体量が増えたとしても、速度の増加がむしろ相殺量をより一層拡大する。突然ここに、今まで関係がなかった商人が登場して、一方的な支払いを求めたとしたら、とんでもないことにはなるが、それは通常の論理の世界を逸脱する設定であろう。また、無理にここでラテン語を登場させてまで、正比例とする理由があるのだろうか。読者にも加わってもらういい機会ともなった。論理の展開部分であるから、感覚的とか奇策的な解答は必要外、しっかりと読み、事実を把握し、正解に迫って貰いたい。訳者に遠慮する程の訳者じゃないし。前に見たように、ロンドンのディロン商会の取り扱いは、入りも出もほとんどが手形・小切手であり、その決済期間が長期化すれば、その錯綜がうまくさばければいいだけのことではあるが、一旦恐慌ともなれば、その決済量が巨大なものとなり、相殺がかなわず、しかも長期化するのは明らかである。この点も踏まえれば、逆比例が吹っ飛び、正比例係数もとんでもなく大きくなり、各国政府公金以外に手当てする方法がなくなることが浮き彫りになろう。)
(13 ) 支払い媒体へと貨幣が発展すれば、その総計の支払いを定めた日のために、蓄えることが必要となる。一方の退蔵、富を得る明確なる様式、は、市民社会の進展とともに消失する。支払い手段の確保という方式が進展とともに成長する。
C. 世界貨幣
(1 ) 国内流通の局面を離れれば、貨幣は、その地方の殻、そこで表していたものを脱ぎ捨てる。価格の基準とか、コインとか、代用貨幣性とか、価値の表象とかのそれらを脱ぎ捨て、その本来の姿である金塊に戻る。世界の市場間の売買においては、商品の価値も、まさに世界的に認められるものとして表される。であるから、この場合、それらの独立した価値形式もまた、世界貨幣の形で、それらに対面する。唯一 世界市場においてのみ、貨幣はまた、その形をして、抽象的人間労働の直接的社会的な具体的化身たる商品としての 圧倒的な性格を獲得する。この局面における、その現実の存在様式は、その典型的な概念と適切に一致する。
(2 )国内流通の局面範囲では、価値の尺度を務めることで、貨幣となる商品は、ただ一つしかありえない。世界市場では、二重の価値尺度が支配する。金と銀である。
(3 )世界貨幣は、世界的支払い媒体としての役を務める。また世界的購入手段として、さらに、全ての富の世界的に承認される体現物としての役をも務める。国際的貸借を決算する際の支払い手段としての機能がその主要なものである。だから、重商主義者達の合言葉は、貿易収支。金・銀は、主に、国際的購買手段を務め、一旦、様々な国間で行われている取引の通常的均衡が急に乱されることになれば、必要不可欠となる。最後に、それは、買いまたは支払い上の問題だけではなく、市場での特別の事情、またはそれ自身が意図する目的から、一国から他国への富の移動に関する問題が生じた場合、または商品の形での移動が不可能となる場合には、世界的に承認された社会的富の体現物となる。
(4 )ちょうど、あらゆる国が、国内流通のために貨幣の貯蔵を必要とするように、あらゆる国は、世界市場という外部の流通のためにも、同様、貨幣の貯蔵を必要とする。退蔵の機能は、従って、一部は国内流通と国内での支払いの媒体としての、貨幣機能に起因し、また一部は世界貨幣の機能に起因する。後者の機能のために、本物の貨幣商品、現実の金と銀が必要となる。ジェームズスチュアート卿は、純粋に地域的な代理からそれらを区別するため、金・銀を「世界の貨幣」と呼んだ。
(5 )金・銀の流路の流れは、二重である。一つは、その産出現場から全世界市場へと自身を広げ、さらに浸透して行くために、いろいろな所、それぞれ異なる国の流通局面へと、流れの導管を満たし、磨耗した金貨・銀貨を置き換え、奢侈品の材料を供給し、退蔵に固まる。この最初の流れは、商品群に実現された労働と、金銀の産出各国の労働が具現化した貴金属群、とを交換した国々から始められる。他方、各国間の流通局面で行き来する金・銀の滞ることのない流れがあり、その流れの動きは、止むことのない為替相場の変動に依存している。
(6 )ブルジョワ形式の生産が、ある程度まで発達した国々では、銀行の頑丈な部屋に集められた退蔵を、それらの特異な機能を適切に実行するために求められる最低量に制限する。これらの退蔵が平均的な量を大きく越える場合はいつでも、例外はあるが、商品の流通の 閉塞指標、商品変態の流れの 障害指標となる。
訳者余談を一つ追加しよう。退蔵が目に余るようになれば、銀行はどうするか? 我々ごとき貧乏人には分からない。なんてぇことはねぇ。一方で、サブプライムローンという商品でも組んで、現物を、貧乏人に貸し付ければいいのである。結果として上手くいかない場合もあるようだが、その時は、貧乏人の貯金等から国家財政を通じて巻き上げればいいのである。どうだ、分かったか。それはないだろうって。ごめんなさい。実は、本文注にあるのを、余談に横取りしました。
そんなことより本文を読んで行けばいいってぇことよ。いよいよ 次章 第四章では、ご資本様ご一行 のご登場だぞ。
[第三章 終り]
[第一篇 終り]