カール・マルクス
資 本 論
第一巻 資本の生産過程
第一篇 商品と貨幣
第一章 商 品
第一節
商品の要素は二つ。使用価値と
価値(価値の実体と価値の大きさ)である。
(1)資本主義的生産を行う社会では、その富は、商品の巨大な蓄積のようなものとして現われる。その最小単位は一商品ということになる。従って、我々の資本主義的生産様式の考察は、一商品の分析を以て始めねばならぬ。
(2)一商品は、とにもかくにも我々の面前に存在して、その特質をもって、人間の様々な欲求を満足させて呉れる。 その欲求が、例え胃からであろうと、幻想からであろうとかまわない。
ただこの商品要素の考察という段階においては、一商品が、直接的に生存のための欲求にであれ、間接的に生産に用いるための欲求にであれ、どのようにこれらの欲求を満足させるかについては、特に知る必要はない。
(3)鉄や紙などの有用物を、その質と数量という視点から見て行くことにしょう。 これらのものは、 様々な特質の集合体であり、様々な用途に使える。 これらの用途の発見は 歴史的な所産である。
また、これらの有用物の数量を計る標準的な方法も、社会的に確立されてきたものである。様々な計量方法があり、計られる物の性状の違いによるものもあれば、習慣的に用いられてきた方法もある。
(4)ある物の有用性が、その物の使用価値である。物の有用性は空中に浮かんでいるものではなく、あくまでもその商品の物質的な特質の内に限られ、その商品の外に存在してはいない。
つまりは、一商品、鉄とかトウモロコシとかダイヤモンドとかは、一現物であり、使用価値であり、有用物なのである。
この一商品の使用価値という特質は、その有用さの質のために必要とされた労働の量からは独立している。
我々が使用価値を論じる場合は、常に、その数量の確認が大切である。1ダースの時計とか1ヤードのリネンとか1トンの鉄とかのように。
しかしながら、商品群の各使用価値の諸々については、それしか知識を要さない商品学に任せておけばいい。
使用価値は、使用や消費においてのみ、実現する。また、富の実体となる。それがいかなる社会的な富であろうともである。現資本主義社会においては、その富がさらに加えて、交換価値の保管物であるということが、我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。
(5)交換価値は、ちょっと見た限りでは、数量的な関係に見える。あるものの有用さと他のものの有用さの比例的な関係に見える。しかもその関係は時や場所によって常に変化する関係に見える。このため、交換価値は偶然的で全く相対的なものであるように見える。しかしながら、一方では、商品とは切り離せない固有の価値にも見える。この相対性と固有という関係には言葉の矛盾を感じるだろう。これらの内容をもう少し細かく考えて行くことにしょう。
(6 )与えられた一商品、例えば、1クオーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々と交換される。これらの商品はそれぞれ全く違う特質を有しているにも関わらず、交換される。小麦という一つの交換価値は、従って、様々な交換価値を持つことになる。
しかし、交換した結果から見れば、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々の交換価値は、1クオーターの小麦の交換価値ということになるので、さらに、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々それぞれの商品は、相互に交換価値があり、交換することができることになる。
これらの事を踏まえれば、第一に、様々な量の商品達の交換価値は同一の何かを表しているということになる。第二に、交換価値とは、一般的に、商品に含まれ、識別できる何んらかのものの、一つの表現形式・現象形式だということになる。
(7 )二つの商品を取り上げてみよう、トウモロコシと鉄である。それらは、それなりの比率で交換可能である。その比率がどうであれ、常に、与えられた量のトウモロコシは、ある量の鉄と、次のような等式で表わすことができる。
1クオーターのトウモロコシ=x ツェントナーの鉄
この等式は、我々に何を語っているだろう? 二つの違った事を語っている。まずは、1クオーターのトウモロコシとx ツェントナーの鉄には、両者に共通な大きさの何かがあるということである。次いで、従って、二つの物には、1クオーターのトウモロコシとx ツェントナーの鉄以外の、ある大きさを持った何かが存在しなければならないということになる。しからば、交換価値を持つこれらの二つの商品は、両者以外の同じ大きさを持つ何かと交換することができ、それらも等式で示しうるということをも語っている。
(8 )簡単な幾何学図で説明してみよう。多角形の面積を求めたり比較したりする場合、我々は三角形に分解して計算する。ところで、三角形の面積は、その形とは別な、底辺の1/2と高さの積で表される。同じ様に、様々な商品の交換価値は、各商品に共通のある物で、その量の多いか少ないかで表すことができるということである。
(9 )この共通のある物は、商品の幾何学的特質でも化学的特質でも、その他の自然的な特質でもあり得ない。その特質は、それら商品の有用性つまり使用価値にあるのではないかと思わせる。がしかし、明らかに商品の交換は、使用価値を全く考慮することもなく実行されるものである。結果的に、ある使用価値は、量が十分対応していれば、別のものの使用価値と同じと見なされるだけである。かのバーボン老が「ある衣料は、もしその価値が他の何かと等しいなら、あたかもその何かと同じものとなる。ある物と他の物の価値が同じで、そこに差異や異存がないならば、100ポンドの価値なる鉛や鉄は100ポンドの価値の銀や黄金と同じ価値であるように、同じ価値、同じ物となる。」と云ったように、見えるだろう。勿論、様々な商品の使用価値はそれぞれ違った特質を持っている、しかし、交換価値となると、量の違いだけである。これらから分かるように、交換価値には、使用価値の1原子も含まれていないと云うことである。
(10 )もし、我々が、商品から、商品の使用価値を取り除いて見たとしたら、何が残っているだろうか。ただ一つ共通的な特質がそこにまだ残っている。商品を作り出した労働がそれである。しかし労働の産物だとしても、それはすでに、我々の手の中の物ではなく、変化してしまっている。
もし、我々が、使用価値を取り除いて見たとしたら、同時にまた、使用価値であるその生産物の素材や形をも取り除いて見たとしたら、もはやそれはテーブルでも家でも糸でも、その他の有用物でもないものを見ていることになる。その物としての内容が視界から消えている。その物はもはや、家具職の労働の産物とも思えず、大工職の労働の産物とも思えず、紡績工の労働の産物とも、その他職種の労働の産物とも云えない。
その物の有用な質も、そこに込められた有用な労働も、労働の内容も見ないとしたら、もう、その物には何も残らない。しかし、それらの物に共通する何かが残るのである。それは、ただ一つのもの、同じ意味での労働、つまり「人間の労働」が、この様に子細を取り去れば、そこにあるのが見えてくるだろう。
(11 )さて、この生産物から諸々を取り去って残った何かを、今こそ取り上げて考察してみよう。それは、それぞれに同じ様にありながら姿は見えない。ただ一様に混ざり合った「人間の労働」の混成物、「人間の労働力」をどのように混ぜるかに関係なく混ぜ合わせた代物なのである。「人間の労働力」が注ぎ込まれた生産物、「人間の労働」が生産物となっていると、これらの考察が語っている。このように、生産物全てに共通する「人間の労働」という社会的実体の結晶を見れば、それが――価値である。
(12 ) 商品が交換される時、それらの交換価値は、全く、使用価値から独立したあるものであると明らかに示す。我々が見て来た通りである。しかしもし、それらの使用価値を取り去っても、見て来たように、そこには価値が残存する。であるから、商品の交換価値の中に、価値を示す共通なあるものの存在が明らかである。交換されるものはいつでも、その価値なのである。
我々の考察の進展は、やがて、交換価値が単に、商品の価値を証明するか、表現するかの形式であることを教えてくれることになるだろう。が、今の段階では、この交換価値とその形式から逆に、それから独立している使用価値の方について思考を深める必要がある。
(13 ) かくて、使用価値あるいは有用物は、物に込められた「人間の労働」という、こまごました内容がそぎ落とされたところの価値を持つ。さて、この価値の大きさはどのようにして計量されるのだろう。明瞭そのもの、価値を作り出した実体、その物に込められた労働の量である。そして、労働の量は、その労働の期間で計量される。労働の期間の大きさは、その標準的な週,日,時間で計量される。
(14 ) すると、ある人は、こんな風に考えるかも知れない。その物に費やされた労働の量で商品の価値が決まるなら、愚図で、未熟な労働者の作った商品の方がより価値があることになる。なぜなら、彼の生産物にはより長い時間を要しているだろうからと。
そういうものではない。価値を作り出す労働とは、均一に混ぜ合わせられた「人間の労働」であり、一つの決まった様式で表すことのできる労働力の表現なのである。社会によって作り出されたすべての商品の価値の総計に込められた社会的な労働力の総計のことである。ここは、大勢の個々の労働力で構成された一塊りの均一な労働の集合体として見た「人間の労働」で考える必要がある。このように見れば、個々の労働単位は、他の者の労働単位と同じである。その労働の結果も同様である。つまりは、社会的な平均の「人間の労働」という性格をもったものである。一商品を作るに要する平均的時間以上の時間は必要もなく、社会的に必要とされる時間を越える時間も必要がない。通常の生産条件において、かつ平均的な熟練と集中力をもってある物を生産するに要する社会的な労働時間のことである。
機械を導入した英国では、ある量の糸を布にするために必要な労働時間をおおよそ1/2に減らした。手織りの場合は、従来と同じ時間を要したが、実際に、この影響を受けて、一時間の労働が、半時間の社会的労働で置き換えられ、その結果、以前の価値が半分に下がった。
(15 ) ある物の価値の大きさは、社会的に必要とされる労働の量、または、生産物に必要とされる社会的な労働時間がこれを決めていると分かった。これらのことを踏まえれば、それぞれ個々の商品は、どれをとってもその一般的で平均的な社会的労働時間の量の生産物と見ることができる。従って、同じ商品は、そこに同じ量の労働が含まれており、また同じ時間で生産することができ、同じ価値を持っている。一商品の価値は、他の商品の価値と比例している。丁度そのものの生産に必要な労働時間が、他の物の生産に必要な労働時間と比例しているからである。つまりは、すべての商品の総価値は、まさに、総労働時間が凝結したものなのである。
(16 ) 一商品の価値は、もし、その生産に要する労働時間が変わらず一定であれば、一定に留まる。ただ、労働時間は、労働生産性の変化により変わってくる。労働生産性は、様々な周辺状況や、作業技量の向上や、科学の進捗や、実用的な道具類の応用や、生産の社会的組織化、生産手段の実用化・拡大化、自然条件、で変わってくる。
例えば、同じ労働量が豊作の季節なら、8ブッシェルのトウモロコシの収穫となるが、不作の季節なら、4ブッシェルの収穫に終わる。同じ労働量が、鉱脈豊かな鉱山では、貧弱な鉱山より多くの金属を産出する。
ダイヤモンドともなれば、地表にはまずなく、その発見には、非常に長い労働時間が費やされ、その多大な労働が小さな片に象徴されている。 黄金といえども、その全ての価値が今迄にまともに評価されたことがあるかとヤコブは云うが、ダイヤモンドに当てはめればなおさらのことであろう。
エッシュベーゲによれば、1823年に至る80年間のブラジルのダイヤモンド鉱山が産出した全ダイヤモンドの価格は、同国の砂糖とコーヒー農園の一年半の平均的生産額にも及ばないと云う。だからこそ、小さなダイヤモンドに、より大きな労働が費やされており、大きな価値を表す。
とはいえ、ダイヤモンド鉱脈の豊かな鉱山なら、同じ程の労働がより多くのダイヤモンドの産出となり、その価値は低落するであろう。もし仮に、僅かな労働の支出で、炭素からダイヤモンドを合成することができたら、その価値はレンガよりも小さなものとなるかもしれない。
一般的に、労働生産性が大きくなれば、その物の生産に要する労働時間は短くなり、その物に結実される労働の量は小さくなり、その価値は小さくなる。逆に、労働生産性が小さくなれば、その物の生産に要する労働時間は長くなり、その物に結実される労働の量は大きくなり、その価値は大きくなる。まとめれば、一商品の中に込められた労働の量で、その価値が変わる、労働生産性は逆の労働量の変化をもたらす。
(17 ) なかには、価値はなくても、使用価値である物がある。人にとって有用ではあっても、なんら労働の必要がない物がそれである。空気、処女地、自然の牧場等である。
また、なかには、有用であり、人間の労働の生産物であっても、商品とはならない物もある。直接的に自分の欲求を満たすために自分の労働によって作った物は、まさに、使用価値を生み出しているが、商品ではない。商品をと云うならば、使用価値を作るだけではなく、他人のための使用価値、つまりは社会的な使用価値を作らなければならない。
(中世の農夫は、他人のために、他でもなく、領主に年貢を、教主に1/10税を生産したのである。確かに、他人のための使用価値を作っているが、この年貢や1/10税は、商品ではない。商品たるためには、他人の使用価値足らしめるために、それが交換によって、他人に渡らなければならない。)
もう一つ最後に、物に有用性が欠けていれば、何物も価値は持たない。もし、無用な物であれば、そこに労働が含まれているとしても、その労働は労働とは見なさない。その労働は価値を作らない。
第二節
商品に込められた労働には、二重の性格がある。
(1) 最初に見たように、一商品は、自らを二つの要素-使用価値と交換価値のからまったものとして我々の前に現れた。また、価値という点から見るときには、労働が、使用価値を作るという労働の性格と同じ性格を示さないという二重の性格についても見て来た。商品に含まれる労働の二重の性格については、別の著書で、他の著者達に先がけて指摘してきたところでもある。この視点は政治経済動向の鮮明な理解のための軸足となることから、我々は、より詳細にこれを捉えておきたい。
(2) 二つの商品を取り上げてみよう。一着の上着と10ヤードのリネンである。前者は後者の2倍の価値を持っているとしよう。そこで、
10ヤードのリネン= W とすると、
一着の上着= 2W と表すことができる。
(3 ) 上着は、そのはっきりした欲求を満足させる使用価値である。その使用価値は、目的的に、作業場を設け、材料と、道具を、用いて行った、そのための特別な生産的活動の結果で実現したものである。その生産物の使用における価値によって、その労働の有用性もそこに示されている。また別な言い方をするなら、労働によって、その生産物が使用価値となっていることが、明らかに示されている。我々がその有用な効果を確認するからこそ、それを有用な労働と呼ぶ。
(4 ) 上着とリネンは二つの質的に異なる使用価値であり、またそれを作り出すには二つの違った労働の形式がある。仕立てと機織りである。これらの二つの物が、質的に違っておらず、またそれぞれ違った労働の質によって生産されていないならば、両者は、商品としての関係をもって相対することはできないだろう。上着は上着と交換されず、同じ使用価値を持つ別の物と交換されることはない。
(5 ) 多くの様々な使用価値に対して、同じように多様な有用労働が対応しており、労働の社会的分業を、目,属,種,変種に分類できるだろう。
この社会的分業は、商品の生産にとっては必要条件なのである。しかしその逆、商品の生産は社会的分業の必要条件とはならない。
とはいえ、古代インドではカースト制による社会的分業があったが、商品の生産となったわけではない。または、近くの例をあげれば、多くの工場内ではシステムごとに労働が分けられてはいるが、その分業間でそれぞれの個別の生産物をお互いに交換したりはしない。生産物がお互いに認められる商品となることができるのは、ただそれらが異なる種類の労働の結果であり、それらの労働が独立してなされており、個別の誰かが考えて行った労働である場合である。
(6 ) それでは、要約しておこう。
各商品の使用価値には、有用な労働が込められている。明確な目的をもって行われた明確な内容の生産的活動ということである。お互いに質的な違いがない有用な労働で成り立っている互いの物は、商品として相対することはできない。
一般的に商品の形で物が生産される社会では、つまり個々の生産者が、独自の考えに基づいて行う独立した有用な労働で、かつ質的な違いがある労働によって成り立っている商品生産者の社会では、労働の社会的分業は、さらに複雑なシステムへと進展する。
(7 ) ところで、上着は、仕立屋に着られようと、客に着られようと、いずれの場合でも、使用価値となる。その上着とそのための労働との間には関係がない。ある状況下において、社会的分業の一独立部門として仕立て業が特別の業種になり、その労働が上着を作ったとしても同様に関係がない。誰かが仕立屋にならなくても、人類は幾千年の昔から、どこであろうと、着衣の欲求があり、衣服を作ってきた。云うまでもないが、上着やリネンは、その他の様々な物や富と同様、自然がそのまんま作り出した物ではなく、特定の欲求に対して自然にある特定の材料を利用して、その目的を持った作業、特殊な生産的な作業を行って得られたものに他ならない。
であるから、労働は、使用価値の作り手であり、有用な労働であり、社会の態様に関係なく、人類の存在にとって、必要条件なのである。
この作業は、自然が人間に課した永遠に続く作業であり、自然と人間の間で材料のやりとりが無かったなら、人間の生命もない。
(8 ) 使用価値、上着やリネンやその他は、商品の本体で、二つの要素が組合わさったものである。つまり、素材と労働である。もし、そのものに費やされた有用な労働を取り去れば、自然が人の助けなしに成したままの材料が残る。人間が働きかける内容は、その自然的素材の形を変えることであって、自然でもやっているようなことである。それどころか、自然的素材を変形するに当たっても、常に自然の力に助けて貰っている。労働のみが、労働が作る使用価値たる物や富の源泉ではないことが分かる。ウィリアム ペティが、労働はその父であり、大地がその母である と言うように。
(9 ) さて、我々は、使用価値として見て来た商品から、ここで、商品の価値の方を考えてみることにしよう。
(10 ) 前に示した仮説、一着の上着は10ヤードのリネンの2倍の価値があるという仮説、に立ち戻ってみよう。この仮説は、単に量的な違いであるが、量が違うことを示しているだけではない。我々が注目するべきものは、もし仮に一着の上着の価値が10ヤードのリネンの2倍であるとしたら、20ヤードのリネンは一着の上着と同じ価値にならねばならぬということなのである。
これらのものは、価値であり、上着もリネンもそれぞれ、そのための労働の明らかな結果であり、それぞれ同じ様に実体である。しかし、仕立てと機織りは、質的に違った内容の労働である。
ところで、仕立てと機織りを同じ人間が順に行うような場合、そのような社会的状況であるとすれば、この二つの労働はただ同一の人間の労働のいろいろであって、異なる人間の労働として明確に決められた状況とは違う。同一の人間が、今日は上着を、別の日にはズボンを作るのと同じで、労働の幅のいろいろを示すだけである。
また、現資本主義社会の中にも、いろいろな指示に基づいて、人間の労働のある部分は、仕立てに、他の部分は機織りに用いられる。多少の問題はあろうが、そういうことにならざるをえないはずである。
(11 ) もし、その生産的活動の特別な形式を見ないとすれば、すなわち、労働の有用な性格を見ないとすれば、そこには、単なる「人間の労働力」の支出以外の生産的活動はなくなる。
それぞれ違った質の生産的活動ではあるが、仕立ても機織りも、人間の頭脳、神経、筋肉の生産的支出、つまりは「人間の労働」が意味するものとなる。
異なる質の労働ではあるが、仕立てや機織りは、「人間の労働力」の、二つの違った支出形態なのである。
勿論、差異があっても、同じものであるこの労働力は、多様な支出形態に対しても支出することができるが、そのためにも、それなりの発展的な技量度に到達していなければならない。
商品の価値は、諸々を取り去った所の「人間の労働」を表しているが、一般的には、人間の労働の支出が、商品の価値を表している。
また、この社会では、将軍とか銀行家が派手な役回りを演じているが、もう一方の側の、単なる人は、みすぼらしい、だがここにこそ単なる「人間の労働」がある。これが、他に何一つ持たない労働力の支出元、平均的で、様々な大きな発展からは取り残された、普通のどうということもない個々の人間なのである。ある特定の社会では、こんなもんである。だが、真実はこうである、単なる平均的労働が、違った地方では、違った時代では、その性格を変える。
熟練労働は、単純労働をより強めたもの、いやそれ以上に単純労働を倍にしたものと考えられる、ある熟練労働の量は、単純労働のより多くの量と同じと考えられる。ところが、実際に経験していることは、熟練労働は、常に、単純労働並みのものへと小さく見なされるということである。
最も熟練した技量の労働で作られた商品でも、未熟そのものの技量の労働の生産物と同じと見なされる。未熟労働だけのある量で表される。違った種類の労働で、違った熟練比率が混ざった労働であっても、社会的な仕組みででき上がったそれらの標準的な未熟労働として低く見なされる。この社会的な仕組みは、生産者の背後に隠れてでき上がってくるため、まるで、あたかも慣習的にでき上がったかのように見える。
以下、全ての労働を、未熟で単純な労働として見ていくことにしよう。その方が分かりやすいだろう。なぜ、この熟練労働があの単純労働とみなされるのかに、煩わされることがなくなり、分かりやすくなるだろう。
(12 ) そこで、例の上着とリネンを価値として見れば、それぞれの異なる使用価値を取り去って見れば、それらの価値は、機織りとか仕立てとかの違いがある有用な労働の形を取り去ったところの労働によって表される。
使用価値としての上着とリネンは、布と糸に、特別の生産活動を組み合わせたものであるが、一方、価値としての上着とリネンは、違いを取り除いた均一な労働の泥団子のようなもので、その価値に込められた労働は、布や糸に係わる生産的関係はかえりみられることもなく、まさに、ただの「人間の労働力」の支出である。
仕立てと機織りは、上着とリネンの使用価値を作るための必要要素である。その二つの種類の労働は、違った質を持っている。しかしこれらの質を取り去るならば、いずれも同じ人間の労働という質しか無くなる。仕立てとか機織りとかの労働が、同じような物の同じような価値の実体を形づくる。
(13 ) 前に示した等式を思い出して貰いたい。上着とリネンは単なる価値ではない。ある明確な大きさがあり、我々の仮説では、一着の上着は10ヤードのリネンの2倍の値であった。では、この差がこれらの値がいつどのように生じるというのだろう。それは、リネンは上着の半分の労働しか含まないという事実による。ということは、リネンの生産に必要な労働力に較べて、上着の生産に必要な労働力はその2倍の時間にわたって支出される必要があるという事実による。
(14 ) 従って、次のようにまとめられる。使用価値に関して云えば、商品に込められた労働はその質を考えるが、価値として見ることになれば、そこに込められた労働は量であり、とにもかくにも、純粋かつ単質な「人間の労働」とみなしてその量として見なければならないのである。
使用価値の場合は、どのようにして? とか それはなんなのか? という質問が該当し、価値の場合は、いくら? とか どのくらい時間を要したのか? という質問に該当する。
商品の価値は、ただ単に、そこに込められた労働の量で表されるものであるから、すべての商品は、それなりの比例関係にある同じ価値のものである、と云える。
(15 ) 上着を作るために必要な、いろいろと異なる、有用な労働の生産性に変動がなければ、上着の価値の総額は、上着の数が増えれば、増大する。
一着の上着が、x日の労働によってできたとすれば、二着の上着は、2x日の労働ということになり、以下同様の計算となる。
そこで、もし、一着の上着を作るに必要な労働期間が倍になったり、半分になったりした時には、どうなるか。倍になれば、一着の上着は、以前の上着の二着分の値に跳ね上がる。半減すれば、二着の上着が、以前の上着の一着分の値になる。どちらの場合でも、各一着の上着は、以前と同じ効用で、違いはなにもない。各一着に込められた有用な労働の質も変わらない。ただ各一着の上着に費やされた労働の量は、以前とは違っている。
(16 ) 使用価値の量が増えれば、物質的な富の増加となる。一着の上着はただ一人にしか着せられないが、二着の上着は二人に着せることができる。
ところが、物質的な富の量の増加は、その価値の大きさの下落を同時に引き起こすことがあり得る。この逆行するような動きの起因は、労働に二重の性格があるからである。
生産力は、云うまでもなく、ある具体的な形を持った有用な労働のことであり、その特定の生産的活動が一定期間内に示す効用は、その生産性に依存している。よって、有用な労働は、その生産性の上昇・下降の比率にもよるが、多かったり少なかったりはあるものの、生産物への有り余るほどの源泉となる。だが、一方、この生産性は、価値として表した労働にはなんらの変化をも及ぼさない。前に示した様に、生産力とは、具体的な有用な労働の形を表すものであるから、それらの具体的な有用な労働の形を取り去っている価値として表した労働には、もはやなんら関係を示しえない。従ってどうしようと、生産力が変化したとしても、一定期間内になされた同じ労働は、常に同じ価値の量を産出するだけである。
だが、生産力に変化が生じれば、その具体的労働が、一定期間内に、使用価値の違った量を産出する。生産力が増大すれば、より大きな使用価値の量を、そして縮小の時はより少ない使用価値の量を産出するのである。
労働の果実を増大する、すなわち労働で作られる使用価値の量を増やすような生産力の変化が、まさにその同じ生産力の変化が、増大した使用価値の量の総価値を減らすであろう。なぜなら、この変化の結果、以前は、その生産に必要だった総労働時間が減るからである。生産力が縮小した場合はこの逆となる。
(17 ) 一方で、生理学的現象かのように、すべての労働は、人間の労働力の支出であり、一切を取り去った典型的な人間の労働という性格によって、商品の価値というものを作り出し、他の一方で、すべての労働は、特別な形式があり、かつ、ある目的を持っている、具体的で有用な労働という性格によって、使用価値を作り出す。
第三節
価値の形式、または交換価値
(1 ) 商品は、使用価値の形で世界に入って来る。物品とか日用品とかであり、鉄やリネンやトウモロコシ他のようにである。これが分かりやすい、見慣れた、いつもの具体的な形であろう。
とはいえ、これらは商品であるから、二重のなにものかであり、有用な物であると同時に価値の保管物なのである。だからこそ、それらは商品であることを示し、商品の形式を持っている。商品の形式とは、すなわち二つの形式、物質的または自然的な形式と、価値の形式である。
(2 ) ここまでいろいろと見てくれば、商品の価値の実体については、マダム クイックリーの「どこでそんなものが掴めるのか」そんなことはわからない、というのとは違うだろう。
商品の価値は、その存在そのままの物質性からは、まさにその反対側にあって、その中には、物質なるものは、1分子たりとも入り込めない。
いかにその一単体商品をひっくり返して調べたとしても、価値のかけらでも残っていないかと調べても、それを捉えることは不可能であろう。
ただ、商品の価値というものが、社会的に実体化されたものという真実が分かれば、人間の労働という典型的な社会的存在がそこに込められており、表されているということが分かれば、価値はただ、商品に対する商品の社会的関係であることが明白となる。実際に、その関係の中に隠されていた価値を見つけるために我々は、商品の交換関係、つまり交換価値から考察を始めたのだ。
我々は、ここで、我々が見て来た最初の価値の形式に、立ち戻ってみなければなるまい。
(3 ) 誰もが知っていようと、いまいと、商品は人々の前では一つの価値の形式を持っている。その使用価値の様々な物体的形式とは違った際立ったしるしを表す。はっきり云えば、それが商品の価値の貨幣形式だ、ということである。
かくて、我々はどうしてもやらなければならない事に直面した。 この貨幣形式発生の過程を明らかにするということである。商品の価値関係を表す価値の表現がどのように進展してきたかである。ごく単純などうということもない交換からこの目もくらむような貨幣形式に到達したのである。
不思議なことに、この追及作業は、今だかって、ブルジョワ経済学から試みられたことがないのだ。我々がこれから行うことによって、同時に、貨幣がもたらした謎も解けるだろう。
(4 ) もっとも単純な価値関係は、云うまでもないが、ある商品を、違った種類の商品で示すことである。このようにすれば、二つの商品間の関係が、一つの商品の価値を、もっとも単純な表現で示すことになる。
A. 最初に出会う、または偶然的な価値の形式
(第三節では、A,B,C,D の 4つの 価値の形式 が記述される: 訳者注)
x量の商品A = y量の商品B または、
x量の商品Aは、y量の商品B に値する。
20ヤードのリネン = 1着の上着 または、
20ヤードのリネンは、1着の上着 に値する。
1. 相反する二つの価値表現の極、相対的価値形式と等価形式
(1 ) この最初に出会う形式の中に、価値の形式の全ての神秘が隠されている。だからこそ、このことが我々にとって非常に難解なところなのである。
(2 ) ここでは、二つの種類の異なる商品 ( 我々の例では、リネンと上着 ) は、明らかに違った役割を演じている。リネンは、自身の価値を、上着で表している。ということは、上着はその価値を表すものとして使われている。 前者は能動的に演じ、後者は受動的に演じている。リネンの価値は相対的価値を表し、相対的価値形式となっている。上着は、等価であることを役目として示しており、等価形式となっている。
(3 ) 相対的価値形式と等価形式は、ともに一体的に結合されており、互いに依存しており、切り離せない価値表現の核心なのである。がしかし、同時に、互いに排除しあう、極端に対立する同じ価値表現の両極なのである。この二つは、二つの異なった商品がその価値表現としての関係に置かれた時、それぞれ別々に当てはめられるのである。
リネンの価値をリネンで表すことはできない。
20ヤードのリネン = 20ヤードのリネン としてもなんの価値表現にもならない。それどころか、この等式は単に20ヤードのリネンは20ヤードのリネンでしかないと、交換価値をも消失した表現で、リネンの使用価値の量のことのみを示すだけとなる。リネンの価値は、だから、なにか別の商品で相対的に表現される他はないのである。リネンの価値の相対的形式は、従って、なにか別の商品 (ここでは上着であるが) の存在を等価形式として予め想定している。一方の等価を表す商品は、同時に相対的価値形式を示すことはできない。等式の右辺に置かれた ( 二つの商品のうちの二番目のもの、 後者の) 商品 (上着)は、価値を表現されるものではない。単に等式の左辺に置かれた ( 二つの商品のうちの最初のもの、 前者の) 商品(リネン)の価値が表現されるための役を務めているだけである。
(4 ) 勿論、等式は逆の関係をも表しているから、20ヤードのリネン = 1着の上着 または20ヤードのリネンは1着の上着に値する、ということが、逆の1着の上着 = 20 ヤードのリネン または1着の上着は20ヤードのリネンに値する の意味にもなる。がしかし、逆に置く場合は、等式の左にくる1着の上着の価値を相対的形式で表すことになり、上着に替えてリネンを、等価形式で置くと、逆に考えなければならない。
一単体の商品は、従って、同時に、二つの価値形式で同じ価値を表現することはできない。この非常に対極的な二つの価値表現形式は、互いに相手を排除しあう。
(5 ) そして、一商品が相対的価値形式を表しているか、逆の等価形式を表しているかは、全くのところ、価値の表現における偶然的な位置による。それは、その価値が表現される商品であるか、価値を表現している商品であるかによる。
2. 相対的価値形式
(a.) この形式の性質と意味
(1 ) 二つの商品の価値関係の中に、商品の価値を表す、あの最初に出会った表現 (等式) が、どのように隠されているかを見つけ出すためには、我々は、初めに、後者(等価形式とした物)を量的な外観からは切り離して見て行かねばならない。
この点で、誰もが、大抵は、逆に、量的外観にとらわれ、価値関係としては何も見ず、二つの違った商品間の明確な量の比率を見て、その比率が互いを等しくしていると見てしまう。
違った物の大きさを、量的に較べるには、これらの物が同じ単位で表された場合だけなのを、忘れてしまっている。 両者が、同じ単位のものとして表わされた時だけ、同一尺度で計ることができるはずだ。
(2) 20ヤードのリネン = 1着の上着、 または = 20着の上着、 または = x着の上着となるかは、与えられた量のリネンが僅かな数の上着に値するのか、いや多数の上着に値するかのということで、どの場合も、リネンと上着の、価値の大きさを、同じ単位表現で、ある種の品物で見ているということである。であるからこそ、リネン = 上着という等式が成り立つのである。
(3 ) これら二つの商品の質の同一性が、このような等式で示されたとしても、同じ役割は果たせない。そうではなくて、ただ、リネンの価値が表されたということである。
それで、どの様にして? すなわち、他のものとも交換できる、等価を示す上着と照合することによってである。この関係によって、上着は価値の存在形態であり、価値の実体である。このような場合においてのみ、リネンもまた、同じ価値の実体となる。
リネンの方から見れば、リネン自体の価値を、自ら独立した表現でできるようになった。上着と同じ価値であり、上着と交換できると。
さて、この説明を化学式で例えてみよう。酪酸は蟻酸プロピルとは違った物質である。だが、どちらも、同じ化学的分子である炭素(C)、水素(H)、酸素(O)からできており、その比率も同じである。すなわちどちらも C4H8O2 である。もし、我々が酪酸と蟻酸プロピルを同じものと仮定してみよう。するとまず最初に、蟻酸プロピルが分子では、C4H8O2 であると分かる。次いで、酪酸が、C4H8O2 であることに言及する。従って、この二つが化学分子としては同じ構成になっている点で、同じものであるとするだろう。勿論それらの異なる物性を無視しての仮定ではあるが。
(4 ) 我々が、価値とは、商品に凝結された人間の労働に過ぎないと云うのならば、まさに、我々の分析をして、価値以外のものをそぎ落として、その事実を明らかにしたい。この価値は、だが、その物体的な形から離されたものではないことも、銘記して置きたい。また、もう一つ、それは、一つの商品と他の商品との価値関係の中にあるものなのである。一商品が価値の性格を示し得るのは、他商品との関係があってこそなのである。
(5 ) 上着とリネンを等価とすることで、我々は、前者に込められた労働を、後者のそれと同じとした。確かに、上着を作る仕立ては具体的な労働で、リネンを作る機織りとは別のものである。
しかし、それを機織りと同じと見るからには、仕立て労働を二つの種類の労働が全く同じものであり、それと同じものとみなすことである。すなわち、人間の労働という共通の性格でこれを見るということである。
なんでもこのようにして見るならば、機織りもまた、仕立てと区別できない、価値を織り込むだけの労働に、ただの「人間の労働」にしてしまう。
これが、互いに違っている種類の商品間の、等価表現なのである。様々な労働の中に、この価値を作り出す特別な性格の労働を持ち込む。異なる様々な労働が込められた異なる種類の商品を、何の違いもない、同じ質の「人間の労働」によるものにしているのである。
(6 )しかしながら、リネンの価値となる、特別な性格を表すこの労働の他にも、実は、必要なあるものがあるのである。「人間の労働力」の作動が、「人間の労働」が、価値を作るが、その労働自体が価値なのではない。
その労働が、ある物の形に込められて、凝結した状態になった時にのみ価値となるのである。
人間の労働が凝結したリネンが価値を表現するためには、物の形を持たねばならないし、かつ、リネンとは違うある物にならねばならない。そのある物とは、リネンとも共通するある物であり、さらに、その他の全商品にも共通するものである。
問題は、すでに解かれている。
(7 ) 価値の等式で、等価を示す位置を占める時、上着は、同じ種類のあるものとして、リネンに等しい質として等式に加わる。それが価値だからである。
この等式位置では、我々は、それを、価値以外の何物とも見てはいないし、価値を表すその明瞭な物体的形式以外の何物とも見てはいない。だが依然として、上着自体は、商品としての物体であり、使用価値そのもののただの上着なのであるが。
このような上着は、我々が初めに(左辺に)置いたリネンの価値以外の何物も告げはしない。
関係がなければ、上着は何も示しはしないが、リネンとの関係に置かれた時、上着は、リネンの価値を明らかにする。あたかも、豪華な軍服を着用した時には、平服時とは打って変わって偉そうに見せるのと同じようなものである。
ここで、少し、訳者として、余談を書きたい。この豪華な軍服と平服の話は、普通ならよくあることと、笑いながら、その比喩的説明を含めて本文の内容を理解するであろう。読んで悩む等ということは無いだろう。だが、
岩波文庫の向坂逸郎訳の資本論(一)では次のようになる。 あたかも多くの人間が笹縁をつけた上衣の内部においては、
その外部におけるより多くを意味するようなものであるというのである。(p96 5行目)
また新日本出版社 社会科学研究所監修 資本論翻訳委員会訳の資本論 1では、こうなる。
ちょうど、多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもつように。(p88 8行目)
読者は悩むどころか読むのを止めるだろう。確かに、私が訳した様な内容と、とんでもなく違っているものではないが、私の訳のように読み取るには、相当高度の日本文の勉強が必要なのは間違いないし、普通の勉強では敷居が高過ぎるだろう。
この少し前に、問題は、すでに解かれている。
というのがあったが、私の訳で読んで来た読者には、問題がなんであって、その解答が垣間見えた瞬間を味わって来たであろう。マルクスの文章がもっと明確に述べるところを早く読みたいと思ってわくわくこそすれ、
何が問題だったのか、他にも問題があるのか、すでに解かれているというのに、なんの解答の感じも湧かないだけでなく、逆に迷路中の迷路に落ち込んだ自分を見つけて自己嫌悪すら感じるといったことは皆無だろう。岩波はこうだ。
だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するのではあるが、価値ではない。それは凝結した状態で、すなわち、対象的な形態で価値となる。人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にも存する「対象性」として表現されなければならぬ。課題はすでに解決されている。
(p95 後ろから 7〜3行目)
新日本では、
もっとも、リンネルの価値を構成している労働の独自な性格を表現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間的労働力、すなわち人間的労働は、価値を形成するけれども、価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になる。リンネル価値を人間的労働の凝固体として表現するためには、リンネル価値は、リンネルそのものとは物的に異なっていると同時にリンネルと他の商品とに共通なある「対象性」として表現されなければならない。この課題はすでに解決されている。(p87 後ろから 5行目〜p88)
単に一部分のみを取り出しただけだから、前段の把握なしには読み取れるものではないが、それにしても、困るだろう。課題がなんだったか、そしてここまで読んで、解答がすでに垣間見えたかは、絶望的と言う他ない。
これらの訳が間違ってはいないと思うが、それにしても理解できるものを理解の外に追う訳であって、訳としての役割を全く果してはいない。
もう一つ笑えるところを指摘しておこう。
マダム クイックリーの登場場面(本第三節 はじめの文節(2))である。岩波は、
諸商品の価値対象性は、かの、マダム・クィックリとちがって、一体どこを掴まえたらいいか、誰にも分からない。 (p89)
新日本では、
商品の価値対象性は、どうつかまえたらいいかわからないことによって、やもめのクィックリーと区別される。(p81)
私の訳では、すでに理解している読者の皆さん方は、マダム クイックリーのようなセリフは言わないだろう となっているところだ。これにはマルクスも開いた口がふさがるまい。いかに英文の資本論が読みやすく、私でも訳せるということがお分かりいただけただろう。これらを参考にして、岩波や新日本に立ち向かうかどうかは読者の判断というものだが、新しい訳が早く読みたくなることだろう。とんだ寄り道だったか。
(8 ) 上着の生産においては、人間の労働力が、仕立ての形で、実際には、支出されなければならなかった。が、それゆえ、人間の労働がその中に蓄積された。このことから、上着は、価値の保管物となる。だが、着古してボロになったなら、その事実をちらっとも見せることはない。
価値の等式での、リネンの等価物は、ただこの局面でのみ、価値が込められたものと見なされ、価値の形としてそこにある。
例えるならば、Bの目に、Aの体形が、陛下なるものとして見えていなければ、Aが、Bに、己を「陛下」と尊称をもって呼ばせることはできないのと同じである。いや、それ以上のものが必要であろう。なにしろ、臣民の新たな父たるたびに、容貌も髪の毛もそれ以外の諸々も変わるのだから。
(9 ) この様に、価値の等式において、上着はリネンの等価物であり、その価値の形の役目を果たす。リネンなる商品の価値は、上着という商品の形によって表現される。あるものの価値は、他のものの使用価値によって表現される。
使用価値としてのリネンは、明らかに、上着とは違っている。だが、価値としてなら上着と同じであり、この場では、上着の外観を持っている。このようして、リネンは自身の物理的形状とは違った価値形式を得る。この、上着との等価によって、証明される価値という事実は、あたかも、キリスト教徒に羊の性質が見られるのは、神の小羊(キリスト)に似るからのようだ。
(10 ) そして、我々の、商品の価値の分析が語って来た全てのことが、リネン自身によって語られ、他の商品、上着、とのやりとりに至ることが分かった。ただ、その思いは、商品の言語で、その内なる関係でしか通じない言語で、その秘密を漏らす。
己の価値が、人間の労働なる、細部をそぎ落とされた性格の労働によって作られたことを我々に語るために、上着が、リネンと同じ値であり、従って価値であり、リネンと全く同じ労働から成り立っていると語る。
価値の崇高な実体が、同じリネンへの糊付けではないことを我々に伝えるために、価値が上着の形を有し、そのことがリネンに価値があることを示し、リネンと上着がまるで双子のようなものと語る。
ここで、我々は、注意しておいた方がいいかもしれない。商品の言語は、ヘブライ語の他にも、いろいろ多くの正確さの異なる方言がある。ドイツ語で、値するは、"Wertsein" と書くが、ローマン語動詞で書く、"valere" "valer" "valoir(vaut)"と較べると、多少訴求力が弱い。特に、商品Bが、商品Aに等価とする時、商品Aの価値形態表現には、明確さを欠く。
フランス語の、パリはミサに値する(Paris vaut bien messe)、をドイツ語では適切に強く表せないのだ。
訳者余談2を書きたい。なぜなら、「パリはミサに値する」というフランス語がなぜ突然登場するのか、私の訳でも理解できないだろうと思ったからだ。
読者は、ひょっとしたら、君主制ヨーロッパの歴史を知らなければ、資本論が理解できないのではないかと思ったかも知れない。理解するに越したことはないが、理解しなくても、資本論を読むになんら支障はないことを説明しておきたい。
ここは、価値表現の等式の把握が主要点であることを改めて認識してほしい。パリはミサに値する を等式化すれば、
パリ=ミサ
となることだ。パリが相対的価値形式であり、ミサが等価形式となり、簡単明瞭にその内容が分かるところだ。英文なら、
Paris is worth mass となろう。
だが、ドイツ語や日本語を等式化すると、
パリ,ミサ=
という語順で書きあらわすことになるだろう。この点で、その表現の明瞭さが違って来る点を指摘しているのである。
特に、日本語では、パリとミサの関係が逆になり、
ミサ,パリ= になったとしても同じ印象に読める。そうなると、ミサは、パリに値する と読んでいるかも知れない。これではフランスの歴史のなんたるかの感覚が生じないかも知れない。あくまでも、A=Bの順で、その等式上の位置を十分に確認した形で、読むことが根幹中の根幹なのである。
この点が指摘されているので、私の訳では、等式の左辺・二つの商品の最初に書かれた商品・前者とか、等式の右辺・二つの商品の二番目に書かれた商品・後者と、くどい括弧書きを入れさせてもらった。
もう一つ神の小羊とキリスト教徒の羊の性質の関係を書いているところがある。キリスト教について知らなければ、資本論が分からないのではないかと思うかも知れない。知るに越したことはないが、同様、特に知らなくても資本論を読むのに支障はない。もし仮に、仏陀と仏教徒の性質の形で書きあらわしたら、どうなるか。ちょっと間を置いてから書いてみよう。
マルクスは1818年にドイツのトリールで、ユダヤ人の家庭に生まれた。6才の時、キリスト教ルター派(プロテスタント)に改宗した。( )は訳者注 だが、宗教に対しては逆の唯物論的な立場の代表とも云える人物となった。ここでは、A = B の説明例だが、それだけではないと感じる。キリスト教徒に羊の性格が生じるのは、神の小羊(キリスト)に似るからである、ではなくて、羊的な生活に押し込められた人々の実情が、キリストという心の拠り所を作り出したという唯物論を感じさせていると見る。
仏教徒は、諦観的性質を示す。それは仏陀の悟りの境地の教えによるものであろう。となるだろう。仏教徒の諦めざるを得ない生活の実体こそ、仏陀の悟りの原因であって、その逆ではない。というところだ。マルクスが資本論を書いた時、日本は江戸時代であったことを思えば、驚愕を禁じ得ない。西欧の資本主義の格段の進展状況とはいえ、その段階で、その法則を読み切ったのだから。
とんだ寄り道2で申し訳ない。本文に戻ろう。マルクスはさらにこのA = B の説明を繰り返している。ここがどうしても理解させたい所だからと強く感じる。私の訳では足りないだろうから、読者の皆さんも、感覚を研ぎ澄ませてもらいたい。
(11 ) さらにくり返して云うが、価値関係を表す我々の等式
(A=B) の意味は、形を持った商品Bが、商品A の価値形式となる。または、商品Bなる物体が、商品Aの価値の鏡役を演じている。
自らを、商品Bとの関係に置くことによって、自分自身(propria persona: ラテン語) の価値を、「人間の労働」により形づくられたものを、商品A自身の価値をも示す具体的実体Bを使って、Aの価値の姿を変換して見せているのだ。
(b.)相対的価値の数量的な確定
(1 ) 価値を表現したい全ての商品は、有用な品物であり、ある与えられた量を持っている。15ブッシェルのトウモロコシとか、100ポンドのコーヒーとかである。そして、ある量のどんな商品でも、ある明確な「人間の労働」量 を保持している。従って、価値形式は一般的に価値を表さねばならぬだけではなく、ある明確な価値の量をも表さねばならない。従って、商品Aの商品Bに対する、リネンの上着に対する、価値関係の中では、価値一般としてリネンの質にも同等な後者としてだけではなく、上着(一着の上着)の明確な量が、明確な量(20ヤード)のリネンの量の等価とされるのである。
(2 ) 等式、20ヤードのリネン = 1着の上着 または、20ヤードのリネンが1着の上着に値する、は、同じ量の価値の実体 (凝結した労働) がどちらにも込められていることを意味している。同じ量の労働時間という同じ労働の量が、その二つのそれぞれの商品には費やされていることを意味している。
しかし、20ヤードのリネンまたは1着の上着の各生産に必要な労働時間は、機織りや仕立ての生産性の変化の度に変化する。我々は、以下、このような相対的価値表現での、量的変化の影響も考えなければならない。
(3 ) I. 上着の価値が一定で、リネンの価値が変化する場合を考えてみよう。仮に、亜麻の栽培地が疲弊して、その結果リネンの製造に要する労働時間が2倍になったとしたら、リネンの価値は2倍となろう、そうなれば、20ヤードのリネン=1着の上着という以前の等式に替わって、20ヤードのリネン=2着の上着という等式としなければならない。その結果、1着の上着には、今や20ヤードのリネンに込められた労働時間の半分しか含まれないこととなる。
別の場合、仮に、織機が改良されれば、この労働時間は半分に縮小する、その結果、リネンの価値は1/2に下落するであろう。その結果、20ヤードのリネン = 1/2着の上着 としなければならない。商品Aの相対的価値、商品Bで表されるその価値は、Bの価値が一定であるとしても、A の価値は、一方的に上昇したり下降したりすることになる。
(4 ) II. リネンの価値が一定で、一方の上着の価値が変化する場合を考えてみよう。もし、例えば、羊毛の収量が思わしくない場合、上着の生産に必要な労働時間が倍に成ったとすれば、20ヤードのリネン = 1着の上着 に替わって、20ヤードのリネン = 1/2の上着ということになる。逆に、上着の価値が1/2に沈んでしまえば、20ヤードのリネン = 2着の上着ということになる。この様に、仮に、商品Aの価値が一定であっても、その商品Bで表される相対的価値は、Bの価値とは逆の方向に上昇・下降することになる。
(5 )I.とII.で違っているケースがあり、もし、それらを考えれば、同じ相対的価値の変化が、違った原因で生ずることが分かる。すなわち、等式 20ヤードのリネン=1着の上着 が20ヤードのリネン=2着の上着 となるケースで見れば、リネンの価値が倍になったか、上着の価値が1/2になったかによるし、20ヤードのリネン=1/2着の上着 となるケースなら、リネンの価値が1/2になったか、上着の価値が2倍になったかである。
(6 ) III. リネンと上着の各生産に必要な労働時間の量が、全く同時に、同じ方向で、同じ比率で変化したとしよう、このケースでは、20ヤードのリネン=1着の上着 は変わらない。たとえその価値が違ったとしてもである。この価値の変化は、第三の商品、その価値が一定だったとするならば、それと比較すれば、直ぐに分かる。もし、全商品の価値が同時に同率で上昇・下降したとすれば、相対的価値は変わらないままである。実際の価値変化は、与えられた時間に生産された商品の量が、減ったのか・増えたのかで、明らかになる。
(7 ) IV. リネンと上着の生産に要する各労働時間、これらの商品の価値が、同時に同方向に変化する、だが変化の比率は同じではない、あるいは方向が逆、その他等と変化する場合、これらの変化の様々な組み合わせから生じる、商品の相対的価値への影響は、I., II., III. の結果から推論できよう。
(8 ) このように、それらの相対的表現に、実際の価値の大きさの変化が、曖昧なく または 残さず反映されることはない。等式が表しているものは、相対的価値の量である。商品の相対価値は、その価値が一定であったとしても、変化するかも知れない。その価値が一定であったとしても、その価値は変わる。結局、価値の大きさとその相対的表現に同じ変化があったとしても、その量が一致する必要もない。
3. 価値の等価形式
(1 ) 我々は、商品A(リネン)が、違った種類の商品B(上着)の使用価値の中に自らの価値を表し、同時に、後者に特別な価値の形式、つまり等価形式という名称を刻印するのを見て来た。
商品リネンは、その価値を持つ自らの内実を、物としての形以外の価値形式が認められていない上着をリネンと同等であるとする行為によって明らかにする。後者が価値を持っているということを、上着が直接的にそれと交換可能であるという事実によって、明らかにする。従って、ある商品が等価形式にあると我々が云うなら、我々は、それが直接的に他の商品と交換できるという事実を表明している。
(2 ) 一つの商品、上着が、他と等価であるとするならば、例えばリネンとだが、そして、これによって、上着がリネンと直接的に交換できるという性格的特質を得たとしても、一体どのような比率で二つが交換できるのか、知る由もない。
リネンの与えられた大きさの価値は、その比率は、上着の価値にかかっている。上着が等価形式にあって、リネンが相対的価値形式にあろうと、逆に、リネンが等価形式にあって、上着が相対的価値形式にあろうと、上着の価値の大きさは、生産に必要な労働時間により、価値形式に係わらず、独立的に決められる。しかし、上着が価値の等式において、等価の位置に置かれたならば、その価値は量的表現を得ることはない。そうではなくて逆に、商品である上着は、ただひとつ、ある品物の決まった量に対する数字を得る。
(3 ) 例えば、40ヤードのリネンは−何に値するのか? 2着の上着である。なぜなら、商品 上着は、ここでは等価の役を演じており、上着 使用価値が、リネンに対応しており、数字が価値を具体化しており、従って、上着の明確な数が、リネンの価値の明確な量を表すに十分と言える。であるから、二着の上着は40ヤードのリネンの価値の量を表す。だが、この表現は、それら自身の価値の量を表すことはできない。
皮相的にこれらの事を捉えてしまうと、つまり、価値の等式において、等価とした側の数値が、ある使用価値を持ったある品物の単純な量が、全てを表現しているかのように捉えてしまうと、ベイリーを誤らせたように、その他大勢が、彼以前にも以後にも誤まったように、おかしな理論となる。単なる量的関係を価値の表現と見間違えたところである。
正しくは、商品が等価を演じていても、その価値の量の確定については、一言も云ってはいないということである。
次に進む前に、ベイリーがなにを見誤って、どう間違えて、どんなおかしな理論を述べたかに、ちょっと興味が湧くだろう。これが分かれば、この文章の理解ももう少しは、はっきりするんじゃないかと思っただろう。いや、訳者だけかも知れないが、なにはともあれ、余談3に、ちょっとお付き合い願いたい。
実は、単位に関係なく、価値を論じることはできないはずとマルクスが書いているところ(3節 A 2. 価値の相対的形式 (a.)この形式の性質と意味) の 本文注にすでに登場しているのである。私の訳が注をとばしているので、申し訳けないのだが、本文を急ぎたいので、後回しになった。
ベイリーは、価値形式の分析に取り組んだ稀な経済学者の一人である。でもなんの結果も得ることができなかった。その原因の一つは、価値形式と価値そのものとの区別ができなかったからである。もう一つは、実利だけのブルジョワジーの粗雑な思考の影響下にあったがためである。彼らブルジョワジーにとっては、商品の量だけが全てなのであったのだから。「量の命令が-----価値を構成する。」ということになるのである。
私も自分の訳に、安堵したところである。
(4 ) 我々に、一種の衝撃をもたらす 等価形式の第一の特異点は、使用価値が、その物ありとする形式が、その反対側にある価値の形式として、なにか驚異的現象のように、現われてくることである。
(5 ) 商品のそのままの形が、その価値形式となる。しかし、よく見てほしい。いかなる場合のいかなる商品Bにも、それが存在するのは、他の商品Aが、それらと、価値関係に入って来る時だけであり、この関係の境界線内に限られる。であるから、商品は、自分と等価関係の中に立つことはできない。また、だから、自分のあるがままの形で、自分の価値の表現に立ち入ることはできない。すべての商品は、自分の等価形式のためには、他の商品のどれかを選ぶように強いられる。そして、使用価値を受け入れる。言うなれば、他の商品のそのままの形が、自身の価値の形式なのである。
(6 ) 商品の物質的存在や使用価値の計量に用いられる一つの方法は、この点を説明するのに役に立つ。一つの砂糖の固まりは、形があって、重い。だから重量がある。だが、この重量を見たり触ったりすることはできない。そこで、我々は、予め重量が決められた様々な鉄片を取り出してくる。この鉄、まさに鉄であるが、砂糖の固まりとは違って、重量の証明の形式以外の何物でもない。それにも係わらず、砂糖の固まりをそれなりの重量として表すために、我々は、それを鉄との重量関係の中に置くのである。この関係においては、その鉄は、その物は、重量以外はなにも表していない。ある量の鉄は、従って、砂糖の重量の測定という役割を果たす。そして、砂糖の固まりの中に込められている重量との関係から、重量の証明の形式を表す。この鉄が演じる役目は、砂糖やその他のものが鉄との間で、ただ、その重量が確定されねばならぬという関係内においてのものである。それらの物が重くもなく、この関係に入ることができないならば、この物は、他のものの重量を表す役目を果たすことはできないだろう。
両者を天秤ばかりに乗せれば、その重量が同じようにあると実際に分かるし、その適当な量比を取れば、同重量となる。重量の計量としての鉄は、ただ砂糖の固まりの重量との関係を表わす様に、我々の価値の表現である物質対象 上着は、リネンとの関係においてのみ価値を表す。
(7 ) 砂糖の固まりの重量を示す鉄は、共に双方にある自然的物性である重量を表している。ここまでが例えである。実際には、上着はリネンの価値を示すものではあるが、双方にある自然的特質を表すものではない。紛れもない社会的なあるもの、それらの 価値 を表している。
(8 ) 商品の相対的価値形式−例えばリネン−は、ある商品の価値を表す。そのある商品は、その物質や性質とはまったくかけ離れた何か別の物で、例えば、上着のようなものである。このそれ自身の表現が、そのものの底に横たわる、ある社会的な関係を指し示す。
等価形式は、その逆である。この形式の神髄は、物としての商品自体−上着−であり、そのままで、価値を表す。そして、自然的自体のまま価値形式が付与されている。勿論、このことは、価値関係が存在している期間に限って、うまく維持されるもので、その時、上着は、リネンに対して等価の位置に立っている。
だから、ある物の特質は、他の物のそれらとの関係の結果である、ではなくて、それらが、価値関係にあることのみを明かしているだけなのである。にもかかわらず、上着は、その特質が直接的に交換可能であるとか、重さがあるとか、我々を暖かく保って呉れる能力があるとかの、それらの特質がごく自然に付与されているからこそ、等価形式が付与されているかのようにある人の目には現われる。
この形式は、その謎めいた性格ゆえに、その形式が完璧な発展を経て、貨幣の形で、彼らの目の前に現われるまでは、ブルジョワ政治経済学者の注目からは、逃れていたのである。
彼は、黄金や銀の不思議な性格をなんとかうまく説明しようと試み、あまり目映えのしない商品に金銀の代理をさせてみたり、あの時この時で等価の役割を演じた可能性がある全ての商品のカタログを列挙したりして、満足を更新し続けるばかり。
彼は、この 20ヤードのリネン= 1着の上着 という最も単純な価値の表現が、すでに、等価形式の謎の解法として提示されているにもかかわらず、僅かな推察力すら持っていないのである。
(9 ) 等価の役を果たす商品の本体は、あらゆる子細を取り去ったところの人間の労働を形づくっており、同時に、ある特別な有用かつ具体的な労働の生産物でもある。すなわち、この具体的労働が、子細内容を持たない人間の労働を表現するための媒体となるのである。
一方で上着が、子細内容のない人間の労働の実形以外の何ものでも無いと云うならば、他方では、実際にその中に込められた仕立て労働は、子細内容のない人間の労働を実現した形式以外の何ものも示さないであろう。
リネンの価値表現において、仕立て労働の効用は、布を作るのではなく、ある物を作ることであって、それを我々は、直ちに価値と認めるのであるが、つまり、労働の凝結物とするにある。ただし、この労働は、リネンの価値を実現した労働と区別することはできない。
価値を映す鏡としての役割を果たすために、仕立て労働は、自身の子細内容を取り去った人間の労働一般以外の質を映してはならない。
(10 ) 仕立てには、機織りと同様、人間の労働力が支出される。従って、両者は、人間の労働という一般的特質を保持する。従って両者は、価値の生産という場合、この点からのみ、考慮されねばならないであろう。これに関してはなにも神秘的なものはない。
しかし、価値の表現になると、話のテーブルは完全に一回転する。例えば、機織りがリネンの価値を作り出したという表現が、どうして、機織りによってではなく、人間の労働の一般的特質によってとなるのか?と。機織りとは逆の別の具体的労働(ここの例では、仕立てであるが)という特定の形式によってなのかと。機織りの生産物の等価を作るという具体的労働によってとなるのかと。
ただ、上着という実形形式が価値の直接的表現となり、そこで、仕立てという具体的労働形式が人間の労働一般の明白なる直接的体現となるからである。
(11 ) ここのところが、等価形式の第二の特異点である。具体的労働が、その反対側にある、子細内容を持たない人間の労働を示す形式となるからである。
(12 )この具体的労働が、我々のケースでは仕立てであるが、示しかつ直接的に特定されるのは、他に変えることができない人間の労働であるからこそ、その他各種の労働をも示すのであり、リネンに込められた人間の労働をも示すのである。
であるからまた、他の多くの商品が労働を指し示すように、個々の労働が、そのままで同時に、直接的に、その性格を社会的な労働として示すのである。
一生産物が直接的に他の商品と交換できる様になるのは、これがその理由だからである。
我々は、今、等価形式の第三の特異点に立ち会っている。すなわち、個々の労働がそのままで、その反対側にある、社会的な労働形式となることである。
(13 ) 等価形式の第二・第三の特異点は、これらの様々な形式を最初に分析した偉大な思想家に立ち戻って見れば、よりよく理解できるであろう。思考形式、社会形式、自然形式等々、そしてそれらの中の一つに価値形式の分析がある。その思想家の名は、アリストテレスである。
(14 ) 彼は、最初から、商品の貨幣形式は、単純な価値形式のより発展したものであり、適当に並べた他の商品の中での、一商品の価値の表現であると、はっきり述べている。彼がこう云っているからである。
5つのベッド = 一軒の家
(clinai pente anti oiciaV ギリシャ語併記)
という表現は、
5つのベッド = 沢山の貨幣
(clinai pente anti . . . dson ai pente clinai ギリシャ語併記)
というのと同じ
であって、区別できない、と。
さらに、彼は、この価値関係がこのような表現に達するためには、つまり、家がベッドと同等であるためには、家がベッドの質を持たねばならない、と見ている。もし、そうでなければ、これらの明白に異なる物と物を、同一基準でもって、較べることはできない、と。
彼は云う。「交換は、物と物が同等であり、同じ基準で計ることができなければ、成立するはずがない。」
が、彼をして、ここまでは来るものの、ここで止まってしまう。そして、さらなる価値形式の分析をあきらめた。
「現実では、その通り交換されているのだが、違うものが、同じ基準で計られるというようなことは−質的に同等なものとして計れることは−あり得ない」(out isothV mh oushV snmmetria : ギリシヤ語)と。
このような同等化は、実際の現実にはあり得ない何かでしかなく、従って、単なる「実用上の、当座しのぎの、辻褄合わせみたいなものでしかない。」(th men oun alhqeia adunaton: ギリシャ語) という分析結果で終わったのである。
(15 ) 何が、これ以上の分析の障害となったのか、彼自身が我々に語ってくれている。価値概念の欠落であった。何が同等のなにかなのか、何が、家で表現されるベッドの価値を認めるところの、共通のものなのか?
アリストテレスは、本当に、そんなものがあるはずもないと云う。何故ないのか?ベッドと較べることで、家はそれに等しい何かを表してはいないか。云うまでもないが、ベッドと家とを共に同等として表しているものがあるではないか。−そう、それが、人間の労働である。
(16 ) 分かりそうなものであるが、アリストテレスには、商品に帰属する価値が、単なる全ての労働の、均一の人間の労働の、従って、同等の質である労働の表現形態であるということが見えていなかったという重要な事実が分かる。
ギリシャ社会は、奴隷制度の上に成り立っていた。そこでは、これが当たり前のことであり、人やその労働力は同等ではないのである。
価値表現の秘密は、全ての労働が、同等・等価で、人間の労働として一般化しているからこそ解けるのであって、人間の平等が普通に既定の概念として定着するまでは、解読され得ないのである。つまり、多くの労働の生産物が商品の形をとる社会において、すなわち、主な、人と人の関係が、商品の所有者であることで初めて解けるのである。
アリストテレスの天才の輝きが、商品の価値の表現を同等の関係から見つけ出したことは、見事であるが、彼の生きた特異な社会の中では、只一つ、真実が、人間の平等の上に成り立つものであるがゆえに、発見にたどり着けなかったのである。
またしても、訳者余談4 を書きたくなった。等価形式の特異点として三点が示された。整理するつもりはない。読者の方が多分優れた認識に至っていると思うからである。私が書きたいところは、アリストテレスの見えなかった歴史的状況と、今の我々が置かれた社会的歴史的状況とどの程度の違いがあるかの方なのである。確かに自由、民主主義、一人一票、貨幣さえあればなんでも買える。だが、もしアリストテレスがここにいたら、この壁が越えられたか。多くのブルジョワ経済学者達にとっても、この壁は余程高いのだから、ひょっとしたら、ケインズ顔負けの、「巨額な金融負債と公金の投入が、価値を作るはずはないが、緊急的措置として、価値を維持するための実用上の辻褄合わせなのではないか」とか云うんじゃないかと、余計な心配をしてしまった。お待たせして申し訳なかった。
4. 最初に出会った価値形式を全体的に見れば
(1) 最初に出会った、商品の価値の形式、その等式には、他の、違った種類の商品との価値関係の表現が含まれている。また、各そのものの交換関係の表現が含まれている。
商品Aの価値は、商品Bが直接的にこれと交換できるという事実によって質的に表わされる。また、その価値は量的にも、Bのある決まった量が、ある決まった量のAと交換できるという事実によって表される。
他の言葉で云うならば、商品の価値は、交換価値の形式となることで、独立性と明確な表現を獲得する。
この章の初めの所では、一商品は、使用価値であり、また、交換価値であると、ごく普通に簡略化して述べているが、正確に述べるならば、これは間違っている。
一商品は、使用価値または有用な物であり、価値である。それは、それ自身を、このように二重のものとして明らかにする。そして直ぐに、その価値は独立した形式を得て、すなわち交換価値の形式となる。
だが、この形式は、それぞれが他の違った種類の商品と、価値関係や交換関係に置かれた時にのみ明確になるものであって、互いに別々に離されている場合では何も明らかにはしない。
間違いを訂正したところであるが、上記の表現様式は障害にはならない。簡単な省略的表現として見れば、適切である。
(2) 我々の分析は、商品の価値の形式または表現が、その価値の本質に発していることを明らかにした。また、価値とその大きさが、交換価値の表現形態から発しているものではないことをも、明らかにした。
ところが、重商主義者達や、昨今の再唱者 フェリエやガニイやその他の者ばかりでなく、その正反対側に居る自由貿易主義者の近代的行商人のバスティアまでもが、次のような妄想を示す。重商主義者達は、価値の表現である質的な所に特別の関心をもっているが故に、当然ながら、商品の等価形式、貨幣の中にその完全さを獲得するものにしか関心を示そうともしない。また、自由貿易主義者の近代的行商人達は、逆に、どんな価格ででも彼らの手持ち商品を減らしていかなければならないことから、相対的価値形式の量の方に最も強い関心を示す。
その結果として、彼らには、価値もなければ、価値の大きさもない。単に商品の交換関係による表現ばかりとなる。日々変わる商品群の価格リストで見る交換関係ばかりとなる。
ロンバード通りで、これらの混乱した思考にそれなりの衣装を着せるのが仕事のマックロードは、最上の学問的美装を施して、(金銀と君主付与特権に固執する)迷信的な重商主義者達と(個人の自立へと)啓蒙された自由貿易主義者の行商人達の間を渡り歩くのに(単に粉飾的に)成功した。
(申し訳ないが、( )は訳者の勝手な注として付けたもの)
(3) AのBに対する価値関係を現わす等式の中に含まれる、Bから見た、Aの価値の表現の詳細は、この関係内において、Aの物体としての形はただ使用価値を表しており、Bの物体としての形は、単に、価値の形式か様相を表していると、示している。
どの商品にも内的に存在する、対立または対照性というべき、使用価値と価値が、二つの商品がこの様にお互いの関係に置かれることによって、外的に明らかにされる。価値を表示しようとするある商品はただ直接的に使用価値を呈する、一方の価値を表示された商品は、ただ直接的に交換価値を呈する。従って、最初に出会った商品の価値形式は、使用価値と価値、という対照性を商品の中に含んでいる形式ということがはっきりした。
(4) すべて、労働の生産物は、如何なる社会であれ、使用価値である。しかしそれが商品となるには、それ相応の社会の発展が、ある明確な歴史的段階に到達していなければならない。その段階では、有用な品物の生産に費やされる労働が、その物の客観的な質として表されるようになっていることである。それは価値ということである。であるから、最初に出会った価値形式は、労働の生産物が歴史的に商品となった初期の形式でもあると云える。また、価値形式の発展に歩調を合わせ(pari passu:ラテン語)て、そのような生産物が少しづつ商品へと変形して行ったのであると云える。
(5) 我々は、価値形式の発展に触れれば、最初に出会った価値形式では不足していることに、すぐに気づくであろう。それは、ほんの萌芽にすぎない。これから価格形式へと成熟する前には一連の脱皮を経なければならない。
(6) 商品Bによる、商品Aの価値の表現は、単にAの使用価値から価値を排除しており、従って、商品Aを、一つの単一の商品Bとの交換関係に置く。だが、Aとその他の多くの商品との、質の同等性表現や量の比率値表現からは、依然として、遠く離れている。最初に出会った商品の相対的価値形式は、一つの他の商品との、一対一の、等価形式を知らせるだけである。リネンの相対的価値形式においては、このように、上着が等価形式を表し、または直接的に交換できることをも表す。が、ただ一商品リネンとの関係においてのみに限られることなのである。
(7) この最初に出会った価値形式ではあるが、簡単な変形で、より完成した形式へ進む。確かに、最初に出会った価値形式においては、商品Aの価値は、一つの、ただ一つの他の商品によって表されることになる。だが、その一つの商品は如何なる種類のものでも、上着でも、鉄でも、トウモロコシでも、何でも該当させられるだろう。しからば、Aは、これとでも、あれとでも、との関係に置く事ができるから、一つとの関係以外にも、この同じ物をして、他の多くの商品との間の関係という、違った形の、最初に出会った価値形式を得た。この可能となる表現の数は、ただ、この物から識別できる違った種類の商品の数で制限されるだけである。Aの価値の表現は、従って、最初に出会った価値表現とは違う、どんなに長くならべてもいい、一連の価値表現へと変換できる。
B. 全体的または拡大された価値形式
z量の商品A = u量の商品B または
= v量の商品C または
= w量の商品D または
= 商品E または
= その他の または
(20ヤードのリネン = 1着の上着 または
= 10ポンドの茶 または
= 40ポンドのコーヒー または
= 1クオーターのトウモロコシ または
= 2オンスの黄金 または
= 1/2トンの鉄 または
= 10ポンドの茶 または
= その他 ) または
1. 拡大された相対的価値形式
(1 ) 単一の商品の価値、例えば、リネンは、かくして、数えきれない程の商品世界の品々によって、表現される。他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。故に、この拡大表示は、この価値が自身を、その真実の光の中に、なんの違いもない人間の労働の凝結物として示す最初の瞬間となる。それらを作り出した労働が、明らかに、姿を表し、そこに立っている。労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。人間の労働の形式がなんであれ、仕立てであろうと、農耕であろうと、採鉱であろうと、なんであろうと、関係ない。すなわち、その労働が作り上げたものが、上着だろうと、トウモロコシであろうと、鉄や黄金であろうと、全く関係ない。リネンは、今、その価値形式に基づき、社会的関係の中に立っている。もはや、単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある。商品として、世界市民の如く。また、この終のない価値等式の連鎖が、同時に、商品の価値を意味している。その使用価値の特定の形や種類がどうであれ、なんの違いもないのである。
(2 ) 最初の形式、20ヤードのリネン = 1着の上着、は、他の物が表れても当然の、全く偶然の等式であり、これらの二つの商品がある一定の量で交換可能というのもまた偶然と言える。次に表れた形式は、前とは違って、背景がこれを決めており、偶然的外観からは本質的に違っていると分かる。
リネンの価値が、たとえ、上着やコーヒーやまたは鉄とか、または、多くの異なる所有者の財産である、数えきれない様々な商品で表されたからといって、その価値の大きさを変えることはなく、そのままである。
二人の個々の商品所有者間の偶然的関係は消え去る。ここでは、それらの商品の交換が価値の大きさを決めるのではなく、逆に、価値の大きさがそれらの交換比率を決めると、分かりやすいものとなる。
2. 特別の等価形式
(1 ) 個々の商品、上着、茶、トウモロコシ、鉄、その他は、リネンの価値の表現として登場し、等価を示し、故に、その物の価値を示す。これらの商品の物体としての形は、今では、多くの中の一つという、特別の等価形式を示す。同様、いろいろと違った商品の形は、そこに込められた、多様で具体的で有用な様々な種類の労働が、なんの違いもない「人間の労働」であって、それが作り出した、またはそれを明示している、数多くの形であることを示している。
3. 全体的または拡大された価値形式の欠陥
(1 ) まず第一点として、この価値の相対的表現は、未完成である。なぜなら、ここに表された等式の連鎖に終りがない。次々と新しい種類の商品が現われ、新たな価値を示す物が供給されるたびに、連鎖が長くなる。第二点は、脈絡のない勝手な価値表現の多色の寄せ集めだから。そして、最後に、それぞれの商品の相対的価値が、この拡大された価値形式で表現されるものとなるならば、ならざるを得ないが、それらの相対的価値は、様々なケースで異なり、価値を表す終りのない連鎖となる。
この拡大された相対的価値形式の欠陥は、等価形式にも反映する。それぞれ単体の商品の物体としての形が、他の多くの数えきれないものの中から、特別の等価形式となるのだから、全体として見れば、お互いに排除しあうばかりの等価形式の断片の他にはなにも受け取れない。また同様に、それぞれの特別な等価に込められた、特別で、具体的で、有用な種類の労働は、ただ、特別の種類の労働で表され、その結果、人間の労働一般を余すところなく表すものとはならない。確かに、これらの多数の、特別な、具体的な労働の形式を全体的に集めれば、適当なその表明になるとはいえ、それでもこの場合は、無限の連鎖に完結はなく、統一的概念にはなりえない。
(2 )しかしながら、拡大された相対的価値形式は、下に記すように、他でもなく最初に出会った相対的表現または、初期的な等式の行並べである。
20ヤードのリネン = 1着の上着
20ヤードのリネン = 10ポンドの茶 等々
これらそれぞれは、逆の等式でも同じ内容を表す。
1着の上着 = 20ヤードのリネン
10ポンドの茶 = 20ヤードのリネン 等々
(3 ) 実際に、ある人物が、彼のリネンを多くの他の商品と交換するとしたら、その価値は、他の商品の数々で表される。と言うからは、いろいろな商品の所有者は、それらをリネンと交換したのであって、彼らの様々な商品の価値は、一つの、彼らから見て同じ物、第三の商品、リネンによって表されている。もし、我々が、20ヤードのリネン = 1着の上着 または = 10ポンドの茶、等々という行並びの等式の左右を逆にしたら、ということは、これらを、逆の関係で書き表したら、その行並びは、何を意味するかということであろう、そこで、やってみれば、
C. 一般的価値形式
1着の上着
10ポンドの茶
40ポンドのコーヒー
1クオーターのトウモロコシ = 20ヤードのリネン
2オンスの黄金
1/2トンの鉄
x量の商品A
その他
1. 価値形式の変化した性格
(1 ) 全ての商品は、この形式では、それらの価値を、[1]最初に出会った価値形式で表している。なぜなら、一つの単一の商品で表しているからである。[2]統一された形式で表している。なぜなら、一つしかない同じ商品で表しているからである。この価値形式は、最初に出会った形式であり、すべての商品にとって同じ形式となっている。従って、一般的形式といえる。
(2 ) 前掲のAとBの形式は、一商品の価値を表す場合のみに適しており、それを、その使用価値または物体的な形から、明確に識別している。
(3 ) 最初の形式、Aは、次のような等式をもたらした。
一着の上着 = 20ヤードのリネン
10ポンドの茶 = 1/2トンの鉄
(4 ) 上着の価値は、リネンに等しい。茶のそれは、鉄に。しかし、リネンに等しいとされようが、また鉄にとされようが、これらの二つの等式は、リネンと鉄ほどに違う。これらの形式は、簡明だが、労働の生産物が、偶然とか時々とかで交換される、初期の段階での便宜上でしか表れない。
(5 ) 二番目の形式、Bは、最初のものから見れば、より的確な方法で、商品の価値をその使用価値から識別する。もし、上着の価値ということになれば、上着が自身の物の形をありとあらゆる形に変えたとしても、それが、上着を除く、リネンやら、鉄やら、茶やら、以下省略、ありとあらゆる物と等しいとして対照される場に置かれる。
一方、様々なものに対応する一般的価値表現は、この形式Bでは、直接的に排除される。なぜなら、それぞれの商品の価値の等式において、他の全ての商品が今や、ただそれぞれの等価形式として現われるからである。
拡大された価値形式が現実に存立するものとなる最初は、特定の労働の生産物、例えば畜牛が、今までは例外的であったものが、習慣的に他の様々な商品と交換されるようになった時からである。
(6 ) 三番目で最後の、発展した形式は、全商品世界の価値を、ある一つの、その表現目的のために特別に切り離して置かれた商品で表す。すなわち、リネンである。かくて、リネンとそれらとの同等性によって、それらの価値を我々に示す。
あらゆる商品の価値は、今や、リネンと等価とされることによって、それ自身の使用価値から区別されるだけでなく、他の全ての使用価値からも切り離され、これこそが事実であるが、あらゆる商品に共通するものによって表される。
この形式によって、初めて、商品は、効果的に、お互いの価値としての関係に持ち込まれる。または、交換価値として表される。
(7 ) 二つの以前の形式は、それぞれの商品の価値を、一つの単一の、種類の違う商品か、またはそのような多くの数々の商品で表した。両方とも、言うなれば、それぞれの単一の商品の価値を見出す特別のやりとりで、それぞれ以外の助けはなくてもよい。
一般的価値形式、Cは、全商品世界の共同作業から導かれるものであって、これ以外から導き出されるものではない。商品は、その価値を、他の全ての商品によって一般的表現を得ることができる。同時に、それらの価値を、同じ等価物で表すことになる。すべての新たな商品は、この一揃いの中に加わらねばならない。かくして、商品の価値的存在は紛れもなく、社会的な存在であることが証明される。この社会的存在は、他でもなく、それらの社会的関係の全体によって、表される。であるから、それらの価値形式は、社会的に承認されるべき形式でなければならない。
(8 ) 全ての商品が、今、リネンに等しいとされたのであるから、質的に同一の価値一般であるばかりでなく、その価値の大きさも比較可能となる。それらの価値の大きさを、一つでかつ同じ物質、リネンで表すことから、それらの価値の大きさもまた、互いに、他のものと較べられる。例えば、10ポンドの茶 = 20ヤードのリネン、また40ポンドのコーヒー = 20ヤードのリネン。であるから、10ポンドの茶 = 40ポンドのコーヒーと。他の表現で示せば、1ポンドのコーヒーには、1ポンドの茶に含まれる価値の、わずか1/4の価値−労働−しか含まれていない。
(9 ) 商品の全世界を包含する、相対的価値の一般形式は、他の全ての商品から隔離されて、ただ等価の役割を演じさせる、ある一つの商品−ここではリネン−を、全世界的な等価物に変換する。リネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。物質リネンが、あらゆる種類の人間の労働の、目に見える化身、人間の労働 の社会的結晶状態となる。機織り、特定のもの、リネン、を生産するある私的な個人の労働が、こうしたことから、社会的な性格、他のあらゆる種類の労働と等質の性格を持つことになる。
数えきれない行並びの等式、価値の一般形式は、それぞれ、リネンに込められた労働が、他の全ての商品に込められたものと同等であることを網羅する。そして、さらに、機織りを、区別できない「人間の労働」の表明の、一般形式に変える。
これらのことによって、商品の価値である労働が、様々で具体的な労働形式や有益な現実の仕事等々をはぎ取った労働という、見えにくい面ばかりでなく、それらの目に見える形をその労働自体として表すようにもなるのである。
価値の一般形式は、全ての種類の現実の労働を、人間の労働一般という共通的な性格に、また、人間の労働力の支出に要約する。
(10 ) 価値の一般形式は、全ての労働の生産物を、ただの区別できない「人間の労働」の凝結物として示すものであるが、そのことによってまた、商品世界の社会的な核心を見せる。であるから、この形式が、商品世界において、人間の労働としてのあらゆる労働によって与えられた商品の性格が、商品に特別の社会的性格を付与すると、明白に示すのである。
2. 相対的価値形式と等価形式の相互依存的な発展
(1 ) 相対的価値形式の発展の度合いは、等価形式のそれにも連動して行く。しかし、次の点をしっかりと把握しておきたい、後者の発展は、前者の発展の結果であり、その表現であるに過ぎない。
(2 ) 初期の、または別々な、一つの商品の相対的価値形式は、ある他の商品を別々の等価物に変換する。拡大された相対的価値形式は、一つの商品の価値の表現をその他全ての商品によって表しているのではあるが、それらの他の商品に、違った種類の特別な等価物の性格を与えることになる。そして最後の形式は、特別な種類の商品が世界的な等価物の性格を得る。なぜならば、他の全ての商品がそれを自分らの価値を一律に表す物とするからである。
(3 ) 相対的価値形式と等価形式の対立関係、価値形式の両極は、その形式の対立のまま、同時に発展させられる。
(4 ) 最初の形式、20ヤードのリネン = 1着の上着 は、すでに、未確定以上の、この対立関係を含んでいる。この等式を、我々が前から、または後ろから読めば、そのリネンとその上着の演ずる役割は違っている。あるケースでは、リネンの相対的価値が、上着によって表される。また他のケースでは、上着の相対的価値が、リネンで表される。この最初の価値形式では、従って、両極的対立は把握しにくい。
(5 ) 形式、Bは、ただ一つ単一の商品が、その時、その相対的価値を極限まで拡大することができる。そして、全ての他の商品を、この一つの商品に対する等価物とするからこそ、その限りにおいて、拡大された形式を得る。ここでは、我々は、この等式を逆にすることはできない。20ヤードのリネン = 1着の上着 の単行式とは違うのである。それの一般的性格への変更なしには、拡大された価値形式から一般的価値形式への変換なしにはできないのである。
(6 ) 最後に、形式、Cは、商品世界に、一般的社会的相対価値形式を与える。なぜならば、全ての商品が、ただ一つを除いて等価形式から排除されるからである。その一つの商品、リネンは、それ故に、他の全ての各商品と直接的な交換可能性という性格を得る。なぜならば、この性格は、他の全ての各商品には与えられないからである。
(7 ) 世界的等価の形を表す商品は、その一方で、相対的価値形式からは排除される。もし、リネンが、または他のいずれかの等価役を努める商品が、同時に相対的価値形式をも分担するとすれば、自己の等価役を努めることにもなる。すると、我々は、20ヤードのリネン = 20ヤードのリネン という等式も持つことになる。この同語反復は、価値も、価値の大きさも表さない。世界的等価の相対的価値を表すためには、我々は、形式Cをなんとか逆にしなければならない。この等価は、他の商品と共通するような相対的価値形式は持っていない。だが、その価値を相対的に表すというなら、他の商品の終りの無い行並べということになる。
(8 ) だからこそ、拡大された相対的価値形式 または形式、Bは、それを、等価商品に対する特別の相対的価値形式として示す。
3. 一般的価値形式から貨幣形式への移行
(1 ) 世界等価形式は、一般的価値形式である。であるから、如何なる商品でもその役を果たすことができる。ではあるが、もし、一商品が、世界等価形式 ( 形式C ) を引き受けたと見られれば、それは、他の全ての商品から外され、それらの等価となる限りにおいてのみ、また、それら全商品がその形式を演じる限りのことなのである。そして、この排除が、最終的に、一つの特定の商品に限定された時から、まさに、この時から以外にはあり得ないが、商品世界の相対的価値の一般的形式は、明確な論理性と一般的社会的正当性を得る。
(2 ) ある特定の商品が、この様に社会的に認知された等価形式が、その物体としての形が、貨幣商品または貨幣としての役割を果たすものとなる。それが、その商品の特別の社会的機能となる。その結果、その社会的独占は、商品世界において、世界等価の役割を演じる。商品群の中のそれぞれは、形式Bでは、それぞれが、リネンの特定の等価を示した。形式Cでは、それぞれがリネンに対する共通的な相対的価値を表した。この主要な位置が、一つの特定の−すなわち、黄金によって確立されることとなった。そこで、もし、形式Cにおいて、リネンを黄金に変えるとすれば、どうなるか、
D. 貨幣形式
(1 ) 20ヤードのリネン
1着の上着
10ポンドの茶
40ポンドのコーヒー
1クオーターのトウモロコシ = 2オンスの黄金
1/2トンの鉄
x量の商品A
その他
(2 )形式A から 形式Bへの発展の変化、そして後者から形式Cへの発展の変化は、本質的なものである。だが、形式Cから 形式 D へのそれでは、単に黄金が等価形式となり、リネンの位置に入っただけで、あとはなんの違いもない。形式 D の黄金は、形式Cではリネンだったのと同じで、世界等価である。変化はただこれだけである。直接的かつ世界的交換可能性 − 他の言葉で云えばその世界等価形式 − が、ここに、社会的な習慣によって、最終的に、黄金という物質と同じ物になったのである。
(3 ) 黄金は、今や、全ての商品と対応する貨幣である。それはただ、以前から、普通の一つの商品として、それらに対応して来たからである。他の全ての商品と同様、一等価物としての役割を果たす事ができた。また、個別の交換で、単純な等価物として、または、他から見れば、特別の等価物として、役割を果たすことができた。それが次第に、制約の変化はあるものの、世界等価として用いられるようになった。そして、商品世界の価値の表現という独占的な地位を占めるや、貨幣商品となった。それから、それ以前にはあり得ないが、形式 D は、形式Cとはっきり区別され、一般的価値形式が、貨幣形式へと変化したのである。
(4 ) 最初に出会った一商品の相対的価値表現、例えばリネンと、また同様一商品としての黄金。後者は、貨幣の役を演じるので、この等式が、これら商品の貨幣形式である。リネンの貨幣形式は従って、
20ヤードのリネン = 2オンスの黄金 または
もし、2オンスの黄金が鋳貨刻印されて、2 英ポンドであれば、
20ヤードのリネン = 2英ポンド
(5 ) 貨幣形式の概念を持つための難しさは、世界等価形式と、必然的な結論である 一般的価値形式 形式Cの必要性を、明瞭に理解することにある。後者は、形式Bから演繹的に推論できる。拡大された価値形式は、我々が形式A で見て来たところの 20ヤードのリネン = 1着の上着、または、 x量の商品A = y量の商品Bという基本的要素から成り立っている。
単純な商品形式こそ、貨幣形式の萌芽なのである。
第四節
商品の物神崇拝とそれに係わる秘密
(1 ) 最初、商品は、ごくありふれた物であり、簡単に分かる物として現われる。だが、その分析は、本当のところ、非常に奇妙な物で、形而上学的な名状しがたいものに満ちており、神学的な微妙なものであると示す。
使用する上での価値ということなら、何も神秘的なものはない。人間の欲求を満たすという特質から見たり、人間の労働という特質から見ても、何も神秘的なものはない。人間が、彼の生産により、自然が与えてくれた素材の形を、彼にとって有用なものに作り変えたということは、白昼に陽を見るが如く明らかである。例えば、材木の形は、そこからテーブルを作ることによって変えられる。だとしても、依然として、テーブルは、日常に見るように、ふつうの材木である。
ところが、一歩、商品へとなるやいなや、とんでもないあるものに変身する。テーブルが脚で床の上に立っているだけではなく、他のあらゆる商品との関係で、テーブル頭で立つ。そして、テーブル頭の頭脳から、テーブル回しというのがあるが、それ以上の珍妙不可思議なグロテスクな幻想を、まき散らす。
(2 ) だからといって、この商品の神秘的な性格が、それらの使用価値から発しているものではない。価値の要素を決めている性質から生じるものでもない。なぜなら、第一に、労働の有用な種類や、生産的活動がどう変化したとしても、それは、生理学的事実であるところの、人間の生物としての機能であり、その性質や形がどうであろうと、本質的に、人間の頭脳や、神経や、筋肉 その他の支出ということだからである。第二に、価値の量を決める、すなわち、その支出の継続時間、または労働の量といったものの土台を形成することをも見れば、その量と質の明白な違いも全く自明である。如何なる社会状態であろうと、ものを生産するために費やす労働時間は、発展段階に違いがあれば同じようにではないものの、人類にとっては、必然的に関心を持つ事柄である。そして、最後に、人間がお互いのために何らかの方法で仕事をする瞬間から、彼らの労働は、社会的な形式を得る。
(3 ) それでは、いつから、労働の生産物の得体の知れない性格が、商品の形となるに及んで生じるのであろうか。まさに、その時からである。あらゆる種類の 人間の労働 は、その生産物によって、全てが同じ価値であることを具体的に示めされる。その支出の継続時間による、労働力の支出で計量される価値として、労働の生産物の価値の大きさという形式で示される。そして、最後に、生産者の相互関係が、彼らの労働の、社会的性格が、自ずと関係づけするのだが、生産物間の社会的関係の形式をも、もたらす。
(4 ) 商品は、かくて、神秘的な物となる。そこでは、単純に、人々の労働の社会的性格が、労働の生産物にスタンプされているかのように、客観的な性格として現われるからであり、また、生産者の関係が、彼らの独自の労働の総計なのであるが、その社会的関係が、彼らの間に存在しているのではなく、かれらの労働の生産物間にあるように現わされるからである。神秘の理由は、ここにある。労働の生産物が、商品に、つまり社会的な物になり、その本質がある時は、感じられ、ある時は感じられないためである。
一連の例えとして、物からの光が我々に感じられるのは、我々の視神経の主観的興奮ではなく、目から離れた場所にある客観的な何かの形があるからである。だが、見るという行為では、あるものから、他のものへと、実際の光の動きがなければ始まらない。ここでは外部のものから目に、である。物理的な物質間の物理的関係ということである。商品では違う。商品としての物の存在と、商品としてスタンプされた労働の生産物間の価値関係には、物理的特性とかそれらに生じる物的関係といったつながりは全くない。そこにあるのは、明らかに、人と人との関係であって、それが人々の目には、物と物の関係という幻想的な形として、見えるのである。そこで、この類似的なものを見るためには、宗教世界という霧に囲まれた領域に頼らなければならない。その世界では、人間頭脳の生産物は、あたかも生命を授けられた独立した存在であるかのように現われ、互いと人類との関係に浸入する。商品の世界で云えば、人々の手が作った生産物の中に浸入する。これを、私は、労働の生産物に取りつく物神崇拝と呼ぶ。商品として生産されるやいなや、商品の生産から切り離すことができないものとなる。
(5 ) この商品の物神崇拝の出因は、前記の分析から分かるように、労働の社会的性格という特異点にあり、それが生み出したものである。
(6 ) 一般的に云うなら、有用な品物が商品となるのは、ただひとつ、それらが、私的個人の労働、または個人のグループが他とお互いに独立して仕事をなすからである。これらの私的個人の労働の総合計が社会の労働の総結集を形成する。彼らが、彼らの生産物を交換するに至らなければ、生産者もまた社会的な接触には入らない。交換行為なければ、各生産者の労働の特別なる社会的性格もその姿を見せない。他の言葉で言い換えるならば、個人の労働が、それを、社会の労働の一部であると主張するのは、他でもなく、生産物間の直接的交換行為が確立され、間接的に、それらを通じて、生産者間の関係が生じるからである。後者への、すなわち、一個人の労働と他のそれとの結合的関係は、個人間の仕事を通じての、直接的社会的関係としてではなく、まさに、個人間の材料的関係と物の社会的関係として現われる。ただ交換されることによってのみ、労働の生産物は、有用な物としての彼らの様々な存在とは別に、価値を、一つの同一的な社会的地位を得るのである。
この、生産物の有用な物であることと、もう一つ価値であることの区分は、実際に重要なものとなる。まさに交換が、その先を学ぶ。かくて、有用な品物が交換されることを目的に生産され、その価値としての性格を、生産に入る前に、勘定することになる。この瞬間から、個人的生産者の労働は、社会的に、二重の性格を得る。一方で、明確に有用な労働として、明確な社会的欲求を満たさねばならない。そして同時に生ずる労働の社会的な区分の一端として、全ての労働の集合体の一部分たる地点を保持しなければならない。他方で、個人的生産者自身の様々な欲求を満足させることができる、ただ、あらゆる種類の有用な個人の労働の相互交換可能性が、社会的な事実として確立されている限りではあるが。かくして、それぞれの生産者の私的で有用な労働は、他の全てのそれと同等なものとなる。最も異なる種類の労働の同等化は、ただ、それらの非同等部分をそぎ落とし、共通のものだけに減らして、すなわち、人間の労働力の支出または、人間の労働 とした所で、可能となる。個人の労働が持つ、二重の社会的性格は、日々の労働のうちに、生産物の交換から、わずかにでもその一端が彼の脳に写る時に現われる。
この様に、彼自身の労働が持つ社会的に有用な性格が、生産物は有用でなければならないだけではなく、他人にとっても有用でなければならず、また、社会的性格が、彼の特定な労働が、他の全ての特定の種類の労働と同じであるという条件を形づくり、全ての物理的にも違った品物を、労働の生産物に、一つの共通の質を持つものに、すなわち、価値を持つものにする。
(7 ) 従って、我々の労働の生産物を、他と、価値としての関係に置けば、これらの品物が、均一化された 人間の労働 の物質的な受け皿を成しているのが見えるということではない。全く逆で、いつでも、交換によって、まさにこのことによって、我々の異なる商品を、価値として同じとするのである。また、それらの品物に費やされた異なった種類の労働、人間の労働 を同じとするのである。我々は、この事に気づいていなくても、そうしているのである。だから、価値は、そのラベルにどう書かれていようと、さまようことはない。むしろ、価値は、全ての生産物を社会的な判別しがたい記号に変換する。後に、我々は、この奇妙な記号の解読を試み、我々自身の社会的生産物の秘密の後ろにあるものを得ようとする。有用な物を価値とスタンプするために、あたかも、社会的な生産物が言語であるかのように。
最近の科学的な発見では、労働の生産物が、価値であると言うならば、それらの生産に使われた人間労働の物的表現であるという。 たしかに人類発展の歴史上画期的なことである。 だが、 労働の社会的性格が生産物自身の客観的性格であることを、霧を晴らすように明らかにするものではない。
事実は、我々が取り扱っているもの、すなわち商品の生産という特別の生産形式では、特別に社会的な性格を持つ私的な労働は、個々に独立して行われているが、その性格ゆえにそのようなあらゆる種類の労働を等質と成す、それが人間の労働であるからである。従ってその性格は生産物に価値の形式を表す。−この事実は生産者には、前述の発見があろうとなかろうと、真実であり、それ以上のものはありもしない。丁度、科学的に空気のガス成分が発見されたからといって、大気になんの変化も生じないごとく、である。
(8 ) なんと言っても、生産者の現実的な関心事は、交換において、彼らの物に対してどの程度の他の物が得られるかということである。どの程度の比率で、交換が可能となるかである。これらの比率が、習慣により、ある定常的なところに行き着くのであるが、それがあたかも生産物の自然的特質からもたらされるように現われる。まるで、1トンの鉄と2オンスの黄金が等価であるのは、1ポンドの鉄と1ポンドの黄金が同じ重量であるかことのごとくである。物理的にも化学的にも違った性質であるにも係わらずにである。
生産物に一度このことが印象づけされると、価値を持つという性格が、他のそれぞれと、価値の大きさとして相互に、単に繰り返し繰り返しなされることから、定着性を得る。これらの大きさについては、生産者の行為、予想や、意志から独立して常に変化する。彼らにとっては、彼ら自身の社会的行動が、彼らによって律せられるものではなく、逆に、品物の行動の形式が、生産者を律するかのように思えるだろう。
全ての異なる種類の私的な労働、互いに独立的に行われる労働、さらにその中で社会的部分の一端として発展させられた労働の、ただその積み重ねだけから、比率が、社会が彼らに求める量的比率に到達するまで削られ続ける、という科学的な確信が芽生えるまでには、それ以前に、商品の生産の完全な発展が必要であろう。そして、なぜというなら、偶然的かつ止むことなく変動する商品間の交換関係の中で、かれらの生産に必要な社会的労働時間が、強制的に、あたかも自然法則のごとく立ち現れるからである。重量の法則が、まさに家が崩れ落ちるときに、聞こえてくるようにである。
労働時間で価値の大きさが決まるということが、商品の相対的価値の現実の変動に隠されて、一つの秘密になる。
この発見は、生産物の価値の大きさの決定に関して、単なる偶然性という外観を取り去るが、依然として、決定がなされる様式を変えることには至らない。
(9 ) 人の脳に写る、社会生活の形式や、またそれに繋がるそれらの形式の科学的な分析についての認識は、現実の歴史の進展の流れとは逆の方向となる。彼は、その発展の過程がすっかりでき上がった祭りの後で、彼の手の内に入った結果を元に、後追いで認識に取りかかる。商品であると生産物にスタンプした性格やら、すでに確立されたことを、商品の流通を準備するためへの必要事項としたり、商品が当たり前に自然の安定性を得ているとしたり、社会生活の形式が自明であるとか、意味も分からずに、それらの物事が不変のものと目に写っている。従って、商品の価格の分析、それのみが価値の大きさを決定に導くと考えたり、価値としてのそれらの性格の確立には、全ての商品の共通の表現を貨幣で表すことそれのみで、十分と考えたりする。だが、それは、ただの商品世界の最終的な貨幣形式なのだが、その事が、逆に、私的労働の社会的性格や、個々の生産者の社会的関係を説明するよりも、実際には、覆い隠してしまう。私が、上着やブーツをリネンとの関係に置いたのは、それが、一切の子細を取り外した 人間の労働 という世界等価の化身だからであるが、この事が、かれらの見解ではすっかり消え失せているのがよく分かるだろう。それだけではなく、上着やブーツの生産者のそれらの品物をリネンと較べる時に、云うまでもないがここではリネンが、金や銀と同じ世界等価であるから較べているわけだが、それらの品物がかれらの私的労働と社会的な労働の集合体との関係を表わす。が、このこともかれらの見解では同様すっかり消え失せている。
(10 ) ブルジョワ経済学の範疇には、このような形式が詰まっている。それらが考える内容は、明確な、歴史的な生産様式、すなわち、商品の生産、の条件やら関係やらを、社会的正当性のもとに、表現するものである。
であるから、商品の神秘の全て、商品の形をとる限りでの労働の生産物の回りを取り囲む奇術や魔法の全ては、我々が他の生産形式に行ってしまえば、消える。
(11 ) ロビンソン クルーソーの体験は、政治経済学者のお好みのテーマであるから、彼の島に、見に行ってみよう。普通の人であるが、二三の欲求を満足させねばならない。だから、いろんな種類の有用な仕事を少しはしなければならない。道具や家具を作り、山羊を飼い馴らし、魚を釣り、狩猟をする。彼のお祈りやその関係は取り上げない、それが彼の楽しみの一つであり、それを息抜きとみているのだから。彼の仕事は様々であるが、彼は、彼の仕事の形式がどんなものであれ、一人の活動であり、ロビンソンのそれでしかないことを承知している。であるから、その労働を構成するものは、様々な様式の人間の労働の他にはなにものもない。必要が、彼に、彼の時間を正確に彼の違った種類の仕事に分配するように強いる。彼の全般的活動において、ある種類のそれが他よりも大きな部分を占めるかどうかは、困難性とか、その場合の多少にもよるし、目指す有用な効果の達成がそれなりのものであるといったことによる。我が友ロビンソンは、直ぐに経験から学び、難破船から救出した時計、会計簿、そしてペンとインクで、ブリトン生まれよろしく、帳簿をつける。彼の資産台帳には、彼に帰属する便利な品々のリストがあり、またそれらの生産に必要な作業内訳もあろう、そして最後に、それらの物に彼が費やした労働時間が、平均的にどの程度の量であったか正確に記されたであろう。ロビンソンと、彼自身が作り出した富であるこれらの物との関係は、この通り、極めて単純かつ明解である。セドレイ テイラー氏ですら、なんの苦もなく分かるものである。だが、それらの関係で、価値を決める本質的なものの全てが揃ったわけではない。
訳者余談5を書く。ロビンソンは人間の労働、それも平均的な労働力の支出量も帳簿に記した。それに、もしかしたら、私の想像とは違って、ロンドン市場にこれらの制作物を持ち込む機会のくることを前提にしていたかもしれない。船を調達し、海図を手に入れ、様々な品々を購入すべく、金銀も用意して、その過程で難破したのであるから、商品やら交換やら貨幣やらの知識に遜色は無かろう。すると、彼は価値を確信していたかも知れない。違うとは思うが、つまりそこに交換が潜在しており、社会的な関係を持って、品々を作ったなら、価値を決める本質的なものの全てが整っていることになる。無いのはその機会のみだが、それも予想の範囲として潜在も含めるなら、ロビンソンは商品の価値を作り出していることになる。読者の皆さんは、私の味方だと思うが、果してどうなんだろう。
なぜ、こんな事を余談として記したかは、先人の訳にある。その訳はこうなっているからである。
M・ビルト氏すら、特別に精神を緊張させることなくとも、これを理解できるようである。そしてそれにもかかわらず、この中には価値の一切の本質的な規定が含まれている。
含まれていないというのが、この本の訳者の訳なのだが、含まれているという。ロビンソン物語を子供読みでは私のようになると思うが、ロビンソンの本質的存在をどう見るかで、違いが生じるのか、先人の訳に何か特別の考えがあるのかである。
英文はこうなっている。
And yet those relations contain all that is essential to the determination of value.
(12 ) 光を浴びるロビンソンの島から、我々を、闇のとばりに包まれた中世ヨーロッパへ移してみよう。ここでは、独立した人とは違って、誰もが誰かに頼っているのを見る。農奴と領主、家臣と君主、信者と教主。人々の依存性が、生産の社会的関係を形作っている、丁度、その生産の原則によって、別々の生活圏があるかのようである。だが、人々の依存性・従属性が社会の基礎的任務であるからと言って、かれらの実際の労働やその生産物がそれとは違った幻想的な形式をとる必要性はない。それらの形は、社会の中のやりとりであり、サービスの種類であり、支払いの種類なのである。ここに見られる特異でかつ自然な労働の形式は、商品の生産を基本とする社会における労働形式とは違って、その一般的で、そのままの労働が、直接的に、労働の社会的な形式なのである。強制される労働が、商品生産の労働のように、適切に時間で計られたとしても、農奴の誰もは、領主のサービスに支払うものが、彼自身の労働力の決まった量であることを知っている。教主に差し出される1/10税が、彼の祝福よりも多いという事実を知らない者はいない。だから、違った階級の人々が行うそれぞれの役割がどうであれ、かれらの労働行為の中の個々間の社会的関係が、かれらの互いの人間関係としてことごとく現われるのである。そして、労働の生産物間の社会的関係の形が、偽装されることもなく、そこにあるのである。
(13 ) 共同的な労働、直接的な協同労働の例に行って見たいが、全ての文明化した人類の歴史の発端では、自然の成行としてこのような発展段階があったはずだが、もう戻る道理もない。いや、手近に、百姓の家族に見られる家長制の生業があるではないか。そこでは、一家が使用するために、トウモロコシや、牛や、糸や、リネンや、衣服の仕立てがなされている。これらの違った品々は、家族ということでの、労働の沢山の生産物である。とはいえ、彼らの間での商品ではない。違った種類の労働、耕作、牛の世話、糸紡ぎ、機織り、仕立ては、様々な生産物を産み出す。それらは彼等自身のものである。そして、直接的に社会的機能となる。それが彼等家族の機能だからである。商品の生産の上に作られた社会と同様、それらには、自然発生的な発展が見られる労働の区分のシステムが備わっている。家族内での仕事の配分、数人のメンバーの作業時間の調整は、年齢や性別の違いによって、また季節によって変わる自然の条件によって、巧みになされる。個々それぞれの労働力が、ごく自然に、家族の全労働力の決まった比率のように仕事をなす。そして、だから、個々の労働力の支出の大きさ、その継続時間は、ここでは、彼等の労働の社会的性格の極めて自然なものとして現われる。
(14 ) いろいろと見てきたが、道筋を変えて、自由な個人からなる社会を今度は描いてみよう。そこでは、生産としての仕事を共同の形で行っており、全ての違った個々の労働力は、社会の労働力の組み合わせのように用いられる。ロビンソンの労働の全ての性格が、繰り返されているが、違いがある。個々のそれではなく、社会のそれである。彼によって作られた全ての物は、なにもかもひっくるめて、彼自身の個人労働の結果であり、そして端的に、彼自身の使用のための物である。我々が見ている社会の全生産物は、社会的な生産物である。その一部は、次の生産のために使われるが、それも社会的なものに変わりはない。その他の部分は、構成メンバーによって、生活のために消費される。であるから、この部分の彼等への分配が必要になる。この分配の様式は、社会の組織や、生産者達によって得られた歴史的発展の度合いによって変わってくるであろう。各個々の生産者の、生活のための分配量は、単に、商品の生産で行われるのと同様に、彼の労働時間で決められると確信する。この場合、労働時間は二つの役割を演ずる。その時間の配分は、明確な社会的計画に基づき、そこで行われる違った種類の仕事と共同体の様々な欲求との間の適切な比率で保持される。もう一つは、各個々によりなされた共同労働の比率を計ることに供され、個々の消費分として予定された全体量の中からの受け取り分を決めることになる。
個々の生産者の、彼等の労働とその生産物の両方に係わる社会的関係は、ここでは完璧に単純で、分かりやすい。また単に生産だけではなく、分配に関してもである。
(15 ) 宗教的世界はなんと言おうと、現実世界の投影である。だから、商品の生産の上に成り立つ社会では、その社会の生産者達は、彼等の生産物を商品や価値としてお互いに取り扱うという社会的関係に入ることになり、そこでは、彼等の個々の私的な労働が均一化された標準的人間の労働という小さなものに変えられてしまう。そんな社会で、ブルジョワジー的発展がより一層はっきりして来る中で、ますます個々の特徴を失う人間のカルト依存心情に寄り添うキリスト教が、(古き教義のカトリックよりも個人的自由を許容する)プロテスタントが、(神が作った社会ではあるが、やがて自然の法則で発展するという)理神論等がもっとも適応する宗教の形式となる。 ( )は訳者注
古代アジアや古代の生産様式では、生産物の商品への転換が見つかる、だからまた、人の商品生産者への転換も見つかる。彼等は、集団から外れた従属的な場所に居住させられるが、原始的な集団が、崩壊に近づけば近づく程重要な存在となる。商業国家、と適切に呼ばれるものが、古代世界の隙間に現われる。インタームンディアのエピキュロスの神とか、ポーランド社会の細穴に住むユダヤ人とかのように。これら古代の生産の社会組織は、ブルジョワ社会と較べれば、極端に単純で、透明である。しかし、見るところ、彼等は個人としては未成熟であり、原始種族集団の仲間と繋がっているへその緒が切れてはいない。彼等のような特殊な集団が生まれたり、存在したりするのは、ただ、労働の生産力の発展が、低い段階を越えておらず、従って、物質的な生活の範囲での社会関係が、人と人の間、人と自然の間でも、それに相応して狭いからである。この狭さが、古代の自然崇拝に投影する。また、他の民族的宗教の要素に投影する。
現実社会の宗教的投影は、いずれにしても、最終的には消え去る。日々の生活の実践的な関係が、人々に十分な知識と仲間や自然に対する合理的な関係を提供するようになれば、消え去る。
(16 ) 物質的生産の進展に依拠する社会の生活の実態は、いずれ、自由な協働をする人々による生産として扱われ、ある決まった計画に従って、これらの人々によって行われるようになるまでは、神秘のベールを取り除くことはない。このためには、ある程度の物質的な基礎づくりが社会に求められる。または、そのための条件づくりが求められる。それらは、発展の長く苦しい過程の自然的な生産物のように現われる。
(17 ) 不完全とはいえ、政治経済学は、この通り、価値とその大きさを分析した。そして、これらの形式の下にあるものを発見した。だが、いまだかって、次の疑問を発してしていない。なぜ、その生産物の価値が労働によって表されるのかと。またなぜ、その価値の大きさが労働時間で表されるのかと。*33
本文注: *33 古典経済学の主な欠陥の一つは、商品の分析、そして特に、それらの価値の分析によって、価値が交換価値となる形式の発見に、失敗していることである。アダム スミスやリカードというこの学派の最上の代表者でさえ、価値の形式をなんの重要性もないものとして取り扱っている。商品固有の形質にはなんの係わりもないものとして見ている。その理由は単に彼等の関心がもっぱら価値の大きさばかりに注がれていたからではなく、もっと深いところにその理由がある。労働生産物の価値形式は最も抽象化されたものであるのみでなく、最も世界的に普遍化されたものなのである。だが、ブルジョワ的生産の生産物によって取得されたものであり、社会的な生産の特別なる種類の生産によって取得されたものとスタンプが打たれている。それゆえ、その特別なる歴史的性格をそれに与えている。かくてもし我々がこの生産様式をいかなる社会においても自然によって永遠に固定化されているものとして取り扱うならば、我々は必然的に価値形式の、そしてその結果として商品形式の、そしてそのより発展した貨幣形式や資本形式等々の本質的な差異内容 を見落とすはずである。(フランス語 イタリック) その結果として、我々は、これらの経済学者が、労働時間が価値の大きさを計るものであると完全に認めていながら、貨幣やその完璧化された一般的等価概念について、奇怪で矛盾した概念を持つのである。このことは、彼等が銀行業を取り上げる時、日常会話で貨幣の定義を取り上げる場合に、もはや理屈が合わなくなって、持った桶から水が漏れ出すという驚くべき珍事を披露するのを見ることで分かる。このような概念が復古的な重商主義 (ガニー等) の再来をももたらす。彼等のそれは、価値には何もなく、ただ社会的な形式だけと見る。またはその形式をありもしない幽霊のようなものと見る。はっきりと言っておくが、これがあの古典的政治経済学の見解なのである。私は、その古典的政治経済学とは ウィリアム ペティ以後、ブルジョワ社会における現実の生産関係を考察してきた政治経済学と理解している。俗流経済学とは対照的な地点に立って考察してきた経済学と理解している。さて、俗流経済学は、外観のみを扱う。遠い昔に述べられた科学的経済学の文言をあいもかわらず繰り返す。そしてブルジョワの日常用に最も気になる現象のまことしやかな説明を捜す。後の残り全部は、いかにも格好がつくようにそれらをまとめることであり、ブルジョワジーが、これぞ自分の世界であり、自らにとって最上のありうべき世界なりと、自己陶酔する陳腐な概念を、永遠に続く真理とでも宣言することである。
(本文に戻る) 価値・価値の大きさ、労働・労働時間、かれらの空疎な文句でも、間違いようがない文字を商品の上にスタンプしている。商品は社会の状態に属していると。そこでは、人が制御するのではなく、商品の方が人間を支配している。この空文句はブルジョワジーの知性に、生産的労働そのものが、自然から賦課された、自明の不可欠事項であると顕れる。まさに、ブルジョワジー形式以前の社会的生産方式をブルジョワジーが取り扱うようなものだ。キリスト以前の宗教儀式をキリスト教の神父が執り行うみたいなもんだ。
(18 ) いったいどこまで行くと云うのか、幾人かの経済学者は、商品に内在する物神崇拝、または労働の社会的性格の物体的外観に惑わされてあらぬ所に行ってしまう。いろいろあるが、中でも、交換価値の形成に関して、自然が演じる役割は、という馬鹿げた退屈な口論がそれである。交換価値とは、その物品に授けた労働の量を表す明確な社会的方法であるから、交換の過程で確定されるものであり、自然がなにもそれに係わることはない。
(19 ) 商品の形式を取る生産物、または直接交換のために作られる生産物の生産様式は、最も一般的であり、ブルジョワ的生産の最も萌芽的な形式である。であるから、その外観は、歴史上早い時期に作られた。ただ、現在今日と同じような優越的支配や独特の挙動はない。それゆえに、その物神崇拝的性格は、比較的簡単に見通せた。しかし、より具体的形式に直面するようになると、この単純な外観も消えた。どこからこの重金主義の幻想が生じたのか? その金や銀が、通貨を務めると、生産者間の社会的関係を表すことなく、奇妙な社会的特質を表す自然的な物となった。そして、重金主義を蔑視する近代経済学は、資本を取り扱う段になるといつも、その迷信的幻想を白昼のもとに明解に連れ出さない。経済学が、地代は大地から生じ、社会から生じるものではないという重農主義的幻想を放棄してから、かなりの年月が過ぎているではないか?
(20 ) 先を急ぐ前に、商品形式に関する別の例でもう一度納得してみよう。もし、商品自身が話したら、彼等は次のように云うだろう。「多分、人々の興味の対象は、我々の使用価値であろう。だが、それは我々の物ではない。ただ、我々に属する物は、我々の価値である。我々の商品としての自然な交流がそれを証明している。お互いの目には、我々はただ交換価値以外の何者でもない。」
さて、今度は、それらの商品が経済学者の口を通して喋るとどうなるだろう。「価値−(交換価値)は、品物の特質である。富−(使用価値)は、人のそれである。価値はその意味から交換を含む必要性がある。富は含む必要がない。」「富−(使用価値)は、人の帰属物である。価値は商品の帰属物である。人や集団は富であり、真珠やダイヤモンドは価値である。...真珠やダイヤモンドは、価値がある。」真珠やダイヤモンドのように。
真珠やダイヤモンドに、交換価値を発見した化学者はいまだかってどこにもいない。ところが、この化学的要素の経済学的発見者は、まあとにかく特別の批判的眼識を持っているとかいうが、物の使用価値は物に属し、それらの物的特質からは独立しているという。一方、それらの価値は、それらの物としての部分を形成するという。
これらの見解の云わんとしていることは、以下のことはあり得ない状況だということだ。物の使用価値は交換なしに実現され、人と物との直接的関係そのものであり、一方それらの価値は、交換によって実現される、それこそ社会的な過程そのものなのにだ。
さて、われらが良き友人を思い起こしてみよう。ドグベリーだが、彼は隣人のシーコールに、「顔つきは、富の贈り物だが、読み書きは、自然にもたらされる」と云った。誰がここで間違えているだろう。
[第一章 終り]
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