アップ論文一覧
(2002年11月13日現在)
ここでは、当サイトにアップされている著作・論文のすべてを年代順に並べています。右肩の※はこのサイトで初めて翻訳されたもの、†は全訳としては初めてのもの、◆はロシア語からの翻訳としてはこのサイトでの発表が初めてのもの、をそれぞれ意味しています(ただし、後に『トロツキー研究』および『ニューズ・レター』に掲載されたものは除いています)。
◎重要著作(5本)
『総括と展望』(1906年)
『戦争とインターナショナル』(1914年)
『社会主義へか資本主義へか』(1925年)
『次は何か――ドイツ革命とスターリン官僚制』(1932年)
『唯一の道』(1932年)◆
◎論文・パンフ(193本)
◇1900年代(15本)
「『超人』の哲学について若干」(1900年10月22〜30日)
「ゲルツェンと『若い世代』」(1901年4月22日)
「イプセン論」(1901年6月3〜9日)
「ジュコーフスキー」(1902年4月19日)
『シベリア代議員団の報告』(1903年)
「シオニズムの解体とその後継者の可能性」(1904年1月1日)
「国会と革命」(1907年6月)
「第3国会」(1908年4月)
「失業と飢饉に対する闘争」(1908年12月17日)
「スープの中のゴキブリ――アゼーフ事件の顛末」(1909年3月22日)
「メーデーを前にして」(1909年3月27日)
「テロとその党の破産」(1909年5月)
「わが党とその課題」(1909年6月2日)
「来るべき産業好況」(1909年11月21日)
「民族闘争とプロレタリアートの統一」(1909年12月8日)
◇1910年代前期(20本)
【資料】「パリ総会の諸決議」(1910年1月)
「党の道へ」(1910年2月12日)
「統一へ――あらゆる障害を越えて!」(1910年4月3日)
「バルカン問題と社会民主主義」(1910年8月1日)
「ロシア社会民主党」(1910年8月28日)
「ロシア社会民主党の発展傾向」(1910年9月9日)
「わが国の状況とわれわれの課題」(1911年1月29日)
「エヴノ・アゼーフ」(1911年5月8日)
「団結の自由と請願カンパニア」(1911年6月25日)
「テロリズム」(1911年11月)
「差し迫った問題」(1911年11月)
「党に対する強襲」(1912年3月14日)
「選挙カンパニアの諸問題」(1912年3月14日)
「全党員への訴え」(1912年4月23日)
「バルカン戦争と社会民主主義」(1913年3月14、15日)
「予算と労働者階級」(1913年3〜4月)
「チヘイゼへの手紙」(1913年4月2日)
「議会主義と労働者階級」(1914年2月)
「統一の諸問題(編集部から)」(1914年4月9日)
「統一のための闘争とマルクス主義的中心」(1914年7月6日)
◇1910年代中期(8本)
「『日本』問題」(1915年1月6日)
「パルヴス――生ける友への弔文」(1915年2月14日)
「われわれの政治的スローガン」(1915年2月23、24日)※
「『コムニスト』編集部への公開状」(1915年6月4日)※
「民族と経済」(1915年7月3、9日)
「ツィンメルワルト宣言」(1915年9月15日)
「根本問題――権力のための闘争」(1915年10月17日)†◆
「平和綱領」(1916年1月29日〜4月13日)
◇1910年代後期(14本)
「革命の始まり」(1917年2月27日)
「2つの顔」(1917年3月4日)
「発展する衝突 」(1917年3月6日)
「戦争か平和か」(1917年3月7日)
「誰からどのように革命を防衛するのか」(1917年3月8日)
「ペトログラード・ソヴィエトにおける第一声」(1917年5月5日)
「言葉から行動へ――国際主義者の合同問題によせて」(1917年6月28日(新暦7月11日))
「試練の時期」(1917年7月9日(新暦22日))
『次は何か――総括と展望』(1917年8月(新暦9月))†
『この忌まわしい殺戮はいつ終わるのか』(1917年8月(新暦9月))※
「われわれには平和が必要だ」(1917年10月19日(新暦11月1日)
「第2回全露ソヴィエト大会における演説」(1917年10月25〜26日)
「カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク」(1919年1月18日)
「東方問題に関する中央委員会への手紙」(1919年8月5日)
◇1920年代前期(15本)
「食糧政策と土地政策の根本問題」(1920年2月)
「レーニンにおける民族的なもの」(1920年4月23日)
「もっと平等を!」(1920年10月31日)
「左翼ブロックに対する党の戦術」(1921年6月16日)
「軍事理論をめぐる討論での冒頭発言と結語」(1921年11月1日)
「軍事理論かエセ軍事教条主義か」(1921年11月22日〜12月5日)
「上げ潮」(1921年12月21日)
「統一戦線」(1922年2月26日)
「統一戦線について」(1922年3月2日)
「ローマ・テーゼについて」(1922年3月)
「第11回党大会軍代議員会議における報告と結語」(1922年4月1日)
「ジェノヴァとウラジオストクにおける日本」(1922年4月11日)
「統一戦線と左翼ブロック」(1922年6月8日)
「ソヴィエト・ロシアの新経済政策と世界革命の展望」(1922年11月14日)
「フランスにおける労働者政府」(1922年11月30日)
◇1920年代中期(18本)
「民族問題と青年党員の教育」(1923年3月20日)
『ロシア共産党第12回大会の課題』(1923年4月5日)
「資本主義の発展曲線」(1923年6月21日)
「新聞とその読者」(1923年6月29日)
「『ヨーロッパ合衆国』のスローガンを出すべき時」(1923年6月30日)
「いかなる観点からアプローチするべきか」(1923年8月8日)
「東方における展望と課題」(1924年4月21日) †◆
「レーニンの思い出から」(1924年4月23日)
「ソ連邦と日本――『大阪毎日』特派員・布施勝治氏との対話」(1924年4月24日)
『農村青年の任務と新しい日常生活』(1924年4月28日)※
「ソヴィエと・ロシアと日本」(1924年6月18日)
「労働者通信員とその文化的役割」(1924年8月14日)
「世界軍国主義の成長とわれわれの軍事的課題」(1924年10月25日)
「ヨーロッパ資本主義の安定化の問題によせて」(1925年5月25日)
「新しいページ――医療と文化建設活動家の課題」(1925年12月8日)
「経済問題に関する覚書」(1926年1月15日)
「世界経済の発展傾向の諸問題」(1926年1月18日)
「ヨーロッパとアメリカ」(1926年2月15日)
◇1920年代後期(7本)
「社会主義的蓄積の法則、計画原理、工業化のテンポ、そして無原則」(1926年5月2日)
「革命と反革命に関するテーゼ」(1926年11月26日)†◆
「コミンテルン執行委員会第7回拡大総会における演説」(1926年12月9日)
「一国社会主義の理論」(1926年12月12日)
「シベリアについて」(1927年2月28日)
「われわれは経済的独立を達成することができるか」(1927年3月19〜27日)
「『大阪毎日』特派員の質問に対する回答」(1929年4月24日)
◇1930年代前期(78本)
「コミンテルンの誤謬の『第三期』」(1930年1月8日)
「ソ連経済の新路線――経済的冒険主義とその危険性」(1930年2月13日)
「イタリア革命の諸問題」(1930年5月14日)
「インド革命――その課題と危険性」(1930年5月30日)
「インドシナ反対派の宣言について」(1930年9月18日)
「コミンテルンの転換とドイツの情勢」(1930年9月26日)
「社会主義の成功と冒険主義の危険性」(1930年11月)
「スペイン革命」(1931年1月24日)
「民主主義をめぐるプロメテオ決議に関する批判的論評」(1931年1月31日)
「5ヵ年計画を4年で?」(1931年3月)
「ソ連邦の発展の諸問題」(1931年4月4日)†
「ありのままを語ること」(1931年4月12日)
「スペイン共産主義者の十戒」(1931年4月15日)
「共産主義者の隊列の統一を ソ連共産党政治局への手紙 」(1931年4月24日)
「イタリアの反対派とスペイン革命」(1931年6月9日)
「生産の労働者統制について」(1931年8月20日)◆
「民族共産主義反対!――『赤色』人民投票の教訓」(1931年8月25日)◆
「ファシズムとは何か?」(1931年11月15日)
「国際情勢の鍵はドイツにある」(1931年11月26日)◆
「日本の満州侵略と日ソ戦争の可能性」(1931年11月30日)
「ドイツ共産党の労働者党員への手紙」(1931年12月8日)
「社会主義労働者党の創設と共産主義者の任務」(1931年12月14日)※
「日本、中国、ソ連――アメリカのUP通信とのインタビュー」(1932年2月29日)
「ドイツとの戦争の可能性」(1932年4月15日)
「『モンターク・モルゲン』誌とのインタビュー」(1932年5月12日)
「アメリカにおける労働党の問題」(1932年5月19日)
「反戦大会に関する手紙」(1932年6月13日)◆
「『有色人種』プロレタリアへの接近」(1932年6月23日)
「アムステルダム反戦大会への声明」(1932年7月15日)◆
「ピウスツキ体制とファシズムと現代の性格」(1932年8月4日)◆
「ドイツのパズル」(1932年8月)
「攻勢を強めよう!」(1932年8月6日)◆
「スペインのコルニーロフ主義者とスペインのスターリニスト」(1932年9月20日)
「中国における農民戦争とプロレタリアート」(1932年9月22日)
「思弁ではなく行動のための戦略を」(1932年10月3日)
「レーニン『共産主義の左翼小児病』ポーランド語版序文」(1932年10月6日)
「15年!」(1932年10月13日)
「コミンテルン執行委員会9月総会」(1932年10月13日)
「スターリニストは策を講じる」(1932年10月19日)
「危機に立つソヴィエト経済(第2次5ヵ年計画を前にして)」(1932年10月)
『危機に立つソヴィエト経済』外国語版序文(1932年10月22日)
「コミンテルン第3回大会の教訓――レーニンの隠された演説」(1932年秋)
「スターリンがまたしても自分に不利な証言」(1932年秋)
「ドイツ・ボナパルティズム」(1932年10月30日)
「アメリカ・マルクス主義の展望」(1932年11月4日)
「ロシア革命の擁護(コペンハーゲン演説)」(1932年11月27日)
「ジャーナリストの質問に答えて」(1932年12月3日)
「ヴァンデルヴェルデへの公開状」(1932年12月5日)
「決断を前にして」(1933年2月5日/2月6日)◆
「防衛のための統一戦線――社会民主党労働者への手紙」(1933年2月23日)
「危険信号」(1933年3月3日)◆
「ヒトラーの勝利」(1933年3月10日)
「ドイツ・プロレタリアートの悲劇」(1933年3月14日)
「ドイツ共産党か新党か」(Γ教騎鎧〜Γ教騎鎧)(1933年3月12日、29日)◆
「ドイツとソ連邦」(1933年3月17日)
「ヒトラーと赤軍」(1933年3月21日)◆
「次の焦点はオーストリアだ」(1933年3月23日)◆
「反ファシズム大会に関する手紙」(1933年3月23日)※
「反革命の経済的攻勢と労働組合」(1933年3月30日)◆
「歴史の客観性とは何か」(1933年4月1日)
「反ファシズム大会への声明」(1933年4月)◆
「ドイツ共産党の崩壊と反対派の任務」(1933年4月9日)◆
「青年運動について」(1933年4月10日)◆
「ドイツの決議案に答えて」(1933年4月21日)
「左翼反対派と社会主義労働者党」(1933年4月27日)
「オーストリアのメーデーの後で」(1933年5月7日)◆
「スターリニスト官僚の外交政策について」(1933年5月12日)◆
「ブランドラー派の政綱」(1933年5月22日)◆
「ドイツの破局――指導部の責任」(1933年5月28日)◆
「ヒトラーと軍縮」(1933年6月2日)◆
「『8月4日』」(1933年6月4日)◆
「ジョルジュ・シムノンによるインタビュー」(1933年6月6日)
「国家社会主義とは何か」(1933年6月10日)
「外交的・議会的クレティン病」(1933年6月13日)◆
「ヒトラーはどれだけ持ちこたえることができるか」(1933年6月30日)
「破局に向かう日本」(1933年7月12日)
「ファシズムと民主主義的スローガン」(1933年7月14日)
「新たに共産党とインターナショナルを建設しなければならない」(1933年7月15日)◆
◇1930年代中期(12本)
「スターリン=マヌイリスキー=ロゾフスキー一派と同一のインターナショナルにとどまることは不可能である」(1933年7月20日)◆
「新しい共産党と新しいインターナショナルのために」(1933年7月27日)
「2つのインターナショナルの崩壊」(1933年8月17日)◆
「新しいインターナショナルの必要性とその諸原則についての決議(4者宣言)」(1933年8月26日)◆
「ソヴィエト国家の階級的性格」(1933年10月1日)◆
「南アフリカ・テーゼについて」(1935年4月20日)
「歴史と伝記はどのように書かれるか」(1935年9月)
「POUMの裏切り」(1936年1月23日)
「スペインにおける第4インターナショナルの任務」(1936年4月12日)
「国際書記局への手紙」(1936年7月27日)
「スペインの教訓」(1936年7月30日)
「ジャン・ルーへの手紙」(1936年8月16日)
◇1930年代後期(9本)
「アヴァス通信社とのインタビュー」(1937年2月19日)
「テルミドールと反ユダヤ主義」(1937年2月21日)
「ボリビアにおける農業問題」(1937年4月24日)
「日本と中国」(1937年7月30日)
「スペインの経験を通じた諸個人と諸思想の検証」(1937年8月24日)
「スペイン情勢に関する質問への回答」(1937年9月14日)
「資本主義の死の苦悶と第4インターナショナルの任務――過渡的綱領」(1938年5月)◆
「メキシコの第2次6ヵ年計画」(1939年3月14日)
「遺書」(1940年2月)◆