ソヴィエト国家の階級的性格

トロツキー/訳 水谷驍・西島栄

【解説】この論文は、トロツキーがドイツの破局を前にして、コミンテルンの改良ではなく新しいインターナショナルを目指す立場に立ったことをふまえて、改めてソヴィエト国家の階級的性格(「本質」とも訳せる)について論じた論文である。この中でトロツキーは、ソヴィエト官僚制が国家資本主義でもなければ、新しい官僚的階級支配でもなく、プロレタリア独裁にできた悪性の腫瘍であり、ソヴィエト国家は堕落してはいるがなおプロレタリア独裁であるという年来の主張をかなり体系的に述べている。その後も繰り返し、この問題をめぐってトロツキーは多くの非スターリニスト左翼と論争し、繰り返しソヴィエト国家の階級的性格について論じることになるが、その中でも、この論文は最も重要なものの一つである。

 なお、この翻訳は柘植書房刊の『トロツキー著作集 1933-34』(上)に訳出されていたものを、西島がロシア語原文にもとづいて全面的に修正したものである。

Л.Троцкий, Классовая природа советского государства, Бюллетень Оппозиции, No.36-37, Октябрь 1933.

Trotsky Institute of Japan


   問題設定

 コミンテルンと決別し新しいインターナショナルをめざすという路線は、改めてソ連の社会的性格という問題を提起する。コミンテルンの崩壊は同時に、10月革命から生まれた国家の崩壊をも意味するのではないだろうか? 何といっても、どちらの場合も同一の支配組織が、すなわちスターリニスト機構が問題となっているのだから。スターリニスト機構は、ソ連内部においても国際的舞台においても、同一の方法を適用している。われわれマルクス主義者は一度としてブランドラー派の二重帳簿を支持したことはない。それによれば、スターリニストの政策はソ運内部では非の打ちどころがないが、ソ運の国境外では破滅的であるというのだ。われわれの意見によれば、どちらの場合にも破滅的である。そうだとすれば、コミンテルンの崩壊と同時にソ連におけるプロレタリア独裁の清算をも認めざるをえないのではないだろうか?

※原注 アメリカの利口なブランドラー派(ラブストーン(1)・グループ)は問題をもっと複雑にしている。スターリニストの経済政策は非の打ちどころがないが、ソ連における政治制度はよくない、つまり民主主義がないというのである。これらの理論家たちは、次のように頭の中で自問しなかったのだろうか? 経済政策が正しくて成功を収めているのなら、なぜスターリンは民主主義を清算するのか、と。もしかしたら、プロレタリア民主主義が存在していると、党と労働者階級がスターリンの経済政策に対するその熱狂をあまりに激しく騒然と示すだろうという恐れからか?

 一見したところ、このような主張は反駁しがたいように見える。しかしそれは誤っている。スターリニスト官僚のとっている方法はすべての分野において同質であるが、この方法の客観的な結果は外的な諸条件によって、あるいは物理の用語を用いれば、その物質の抵抗力によって左右される。コミンテルンは、資本主義体制を打倒しプロレタリア独裁を樹立することを目的とした武器である。ソヴィエト国家はすでに実現された革命の成果を維持するための道具である。西方の共産党には、このような相続資本がまったくない。彼らの強さ(実際には彼らの弱さ)は彼ら自身の内部にあり、そこだけにある。ソ連のスターリニスト機構の場合、その強さの10分の9はその内部にあるのではなく、革命の勝利によって生み出された社会的変化のうちに存在する。

 もちろん、このような論点だけで問題が解決されるわけではない。しかしそれは重要な方法論上の意義を有している。それはスターリニスト機構がなぜ、いかにして、国際的な革命的要因としての自らの意義を完全に失いながら、しかもなおプロレタリア革命の社会的成果の門番として、その進歩的意味の一部を保存しえているのかをわれわれに説明してくれる。ちなみに、このような二重性それ自体が、歴史的発展の不均等性の現われの一つなのである。

 労働者国家の正しい政策は国内の経済建設だけに限定することはできない。革命は、それがプロレタリア的螺線の経路にしたがって国際舞台に拡大しなければ、不可避的に一国の枠内で官僚的螺線の経路にしたがって収縮しはじめる。プロレタリア独裁は、全ヨーロッパ的、全世界的なものとならなければ、必ずそれ自身の崩壊へと向かう。大きな歴史的展望にもとづくなら、以上はまったく反論の余地のない事実である。しかし、すべては具体的な歴史的期間のなかで展開する。スターリニスト官僚の政策がすでに労働者国家の清算を引き起こしていると言うことができるだろうか? 今問題になっているのはこのことである。

 労働者国家があたかもすでに清算されているかのように言う主張に対しては、まず何よりもマルクス主義の重要な方法論的立場を対置しなければならない。プロレタリア独裁は政治革命と3年問にわたる内戦によって樹立されたものである。階級社会に関する理論も、歴史的経験もどちらも、プロレタリアートの勝利は平和的手段によっては不可能であることを、言いかえれば武器を手にした壮大な階級間の戦闘を経なければ不可能であることを証明している。そうだとすれば、平和的で目に見えない「漸進的」なブルジョア反革命を考えることは可能であろうか?

 いずれにせよ今日に至るまで、封建的反革命もブルジョア的反革命も「有機的に」生じたためしはなく、そのためには必ず軍事的外科手術の介入が必要であった。改良主義の理論は――それがそもそも理論の高みにまで達した場合の話だが――、究極的には常に階級的矛盾の深刻さと非和解性に対する無理解にもとづいており、それゆえに資本主義の社会主義への平和的成長転化を展望しているのである。ある階級から別の階級の手中へと権力が移行する瞬間の破局的性格に関するマルクス主義の命題は、歴史が荒々しく前方に飛躍する革命期にあてはまるだけでなく、社会が後戻りする反革命の時期にもあてはまる。ソヴィエト政府がプロレタリア的なものからブルジョア的なものへと漸進的に変化したと主張する者は、言ってみれば改良主義のフィルムを逆に回しているにすぎないのである。

 次のように言って反論する人がいるだろう。この一般的な方法論的主張は、それ自体いかに重要なものだとしても、問題を解決するにはあまりにも抽象的すぎる。真理は常に具体的である。階級的矛盾の非和解性の理論は、われわれの分析にとって導きの糸となることができるし、そうならなければならないが、それは分析の結果に取って代わることはできない。歴史的過程そのものの物質的内容を深く探る必要がある、と。

 われわれはこう答える。たしかに、方法論的議論が問題をすべて解明しうるものではない。しかしいずれにせよそれは、証明の責任を反論者の側に転嫁する。自らをマルクス主義者であると考える批判家たちは、3年間の闘争の中で権力を失ったブルジョアジーが戦闘も経ずにいかなる方法でこの権力を回復しえたのかを立証しなければならない。しかしながらわが批判者たちがソヴィエト国家に関し多少なりとも本格的に理論的に表現された評価を与えようとしていない以上、われわれが彼らに代わってここでその仕事をやらなければならない。

 

   「プロレタリアートに対する独裁」

 現在のソヴィエト国家の非プロレタリア的性格を主張する最も広く流布されていて人気があり一見して反論の余地のない議論は、その根拠としてプロレタリア諸組織の自由の圧殺と官僚制の全能の力を持ち出してくる。実際、機構の独裁――それは一個人の独裁に導く――を階級としてのプロレタリアートの独裁と同一視することが可能だろうか? プロレタリアートの独裁がプロレタリアートに対する独裁によって押しのけられていることは明白ではないだろうか? 

 この魅惑的な議論は、現実に展開されている過程の唯物論的な分析にもとづいてではなく、純粋に観念論的な図式にもとづいて、カント的規範にもとづいて立てられている。革命の高潔な「友人たち」は、プロレタリア独裁に関する燦然と輝く概念を想像したうえで、現実の独裁が階級的野蛮のありとあらゆる遺産を受け継ぎ、ありとあらゆる内的矛盾、指導部の錯誤と犯罪をともなっていて、自分が想像した優雅なイメージとは似ても似つかないものであるという現実に直面して、完全に打ちのめされる。最高の善意を裏切られた彼らはソヴィエト連邦に背を向ける。

 プロレタリア独裁に関する完全無欠な処方箋がいったいどこに、どの本に見出せるというのだろうか? 階級の独裁とは、その階級の全構成員が国家の運営に参加するということを必ずしも意味するものではない。このことは何よりも、有産諸階級の例に見ることができる。貴族階級は君主制を通じて支配したが、この君主制に貴族はひざまずいていた。ブルジョアジーの独裁が相対的に発達した民主主義の形態を取るようになったのは、この支配階級がもはや恐るべき何ものも持たなくなった資本主義の高揚期になってからのことである。ドイツでは、われわれの眼前で民主主義がヒトラーの専制に取って代わられ、伝統的なブルジョア政党のすべてが粉みじんに粉砕された。今日、ドイツ・ブルジョアジーは直接的に支配してはいない。政治的にはそれはヒトラーとその一味に完全に従属している。それにもかかわらずドイツにおけるブルジョア独裁は今なお破壊されていない。なぜなら、その社会的支配のあらゆる条件が維持され強化されているからである。ブルジョアジーを政治的に収奪することによってヒトラーは、たとえ一時的であれ、ブルジョアジーを経済的収奪から救ってやったのである。ブルジョアジーがファシスト体制に頼らざるをえなくなったという事実は、その支配が脅かされているという事実を証明するものではあっても、それが崩壊してしまったことを示すものではけっしてない。

 批判者たちは、われわれがそこから引き出そうとする結論を見越して、急いでこう反論するかもしれない。搾取する少数者としてのブルジョアジーならファシスト独裁の手段を通じてもなお、その支配を維持することができるかもしれないが、社会主義社会を建設するプロレタリアートは、ますます広範な人民大衆を国家運営の仕事に直接的に引き入れることによってその国家そのものを指導しなければならないはずだ、と。一般論としてならば、この議論に反論の余地はない。しかし、ここでの場合に関して言うと、それはただ、現在のソヴィエト独裁が病んだ独裁であることを意味するにすぎない。孤立した後進的な一国における社会主義建設の恐るべき困難と、指導部の誤った政策――これも究極的には、後進性と孤立の圧力を反映している――とがあいまって、官僚制が、それ独自のやり方でプロレタリアートの社会的成果を守ろうとしてプロレタリアートを政治的に収奪するという事態になっている。社会の解剖学的構造はその経済諸関係によって規定される。10月革命によって作り出された所有形態が覆されないかぎり、プロレタリアートは依然として支配階級である。

 それ以上に深い分析も加えないままに、すなわち官僚的指令の社会的根源や階級的限界を明確に説明しないままに、「プロレタリアートに対する官僚の独裁」を云々する議論は、メンシェヴィキの間で大いに人気を博した大げさな民主主義的言辞へと容易に行きつく。ソヴィエト労働者の圧倒的多数が官僚に不満を抱いており、そのかなりの部分――けっして最悪の部分ではない――が官僚を憎悪しているということに、いかなる疑いもありえない。しかしながら、この不満が激しい大規模な形態をとらないのは、弾圧のせいだけではない。労働者たちは自分たちが官僚を打倒すれば階級敵のために道を掃き清めることになるのを恐れているのである。官僚と階級との相互関係は、現実には浅簿な「民主主義者」が思っているよりもはるかに複雑である。ソヴィエト労働者は彼らの前に別の展望が開かれるならば、すなわち西方の地平線がファシズムの褐色ではなく、革命の赤色に彩られるならば、機構の専制と始末をつけようとするにちがいない。こうした展望が開けないかぎり、プロレタリアートは歯を食いしばって官僚に耐える(「がまんする」)し、この意味で官僚をプロレタリア独裁の担い手として認める。打ち解けた者どうしの会話でスターリニスト官僚に対して悪口を浴びせかけないようなソヴィエト労働者は一人としていない。しかしこうした人たちの中で、反革命がすでに成就していると認める者は誰一人としていないであるう。

 プロレタリアートはソヴィエト国家の屋台骨である。しかし統治の機能が無責任な官僚の手に集中されているかぎりにおいて、われわれの目の前に存在するのは明らかに病んだ労働者国家なのである。治療は可能であろうか? 治療しようとしてこれ以上努力することは貴重な時間を無駄に浪費することを意味しないだろうか? だが、これは誤った問題の立て方である。

 治療という言葉でわれわれが理解しているのは、世界の革命運動から切り離された何らかの人為的措置のことではなく、マルクス主義の旗のもとで今後とも継続して遂行される闘争のことである。スターリニスト官僚制に対する仮借ない批判、新しいインターナショナルのカードルの育成、世界のプロレタリア前衛の戦闘能力の再生――こうしたことが「治療」の核心である。それは歴史的進歩の基本的方向性と合致する。

 ついでに言っておくと、この数年間、論敵たちは、われわれがコミンテルンの治療に取り組むことで「空しく時を失っている」と一度ならず述べてきた。必ずコミンテルンを治療するとわれわれが誰かに約束したことは一度もない。われわれはただ、最終的な検証が行なわれるまでは、病人をすでに死んだとか、助かる見込がないなどと宣告するのを拒否しただけである。いずれにせよわれわれは「治療」のために1日たりとも時間を無駄にするようなことはなかった。われわれは革命的力−ドルを形成したし、それに劣らず重要なことには、新しいインターナショナルの基本的な理論的・綱領的立場を準備したのである。

 

   理念的規範としてのプロレタリア独裁

 「カント派」社会学者の紳士諸君(カントの霊には申しわけないが)はしばしば、「真の」独裁、すなわち彼らの理念的規範に合致するそれが存在したのは、パリ・コミューンの時期かあるいは10月革命の初期(ブレスト=リトフスク講和まで、ないしせいぜいネップまで)だけであるという結論に到達する。まさにこれこそ、指で空中を撃つ[まったく的外れなことを言う]というものだ! マルクスとエンゲルスがパリ・コミューンを「プロレタリアートの独裁」と呼んだのは、ただそこにプロレタリア独裁の可能性が内包されていたからにすぎない。コミューンそのものはまだ、プロレタリアートの独裁ではなかった。権力を握ったものの、それで何をなすべきかをほとんど知らなかった。攻勢に出る代わりに、それはただ待機した。それはパリ市内に孤立したままであった。それは国立銀行にあえて手をつけようとしなかった。それは全国規模で権力を行使しなかったがゆえに、所有関係における変革を引き起こさなかったし、引き起こしえなかった。さらにブランキ主義者の一面性とプルードン主義者の偏見を指摘しておかなければならない。このために運動の指導者たちでさえ、コミューンをプロレタリア独裁として完全には理解することができなかったのである。

 10月革命の最初の時期をとりあげることもこれ以上に当を得ているわけではない。ブレスト=リトフスク講和に至るまではおろか、1918年の秋に至るまで、革命の社会的内実は小ブルジョア的農地改革と生産に対する労働者統制に限定されていた。このことは、革命がその成果に関するかぎり、ブルジョア社会の枠をまだ越えていなかったことを意味する。この最初の時期、兵士ソヴィエトが労働者ソヴィエトと並んで支配権をふるい、しばしば後者を押しのけていた。ようやく1918年の秋になって、小ブルジョア的な兵士的・農民的自然発生性の波が岸辺からやや後退し、労働者は生産手段の国有化に着手した。この時以降にようやく、プロレタリアートの真の独裁の開始について語ることができる。しかしこの場合でもまだ、大きな留保が必要である。この最初の数年間、プロレタリア独裁は地理的に旧モスクワ公国の範囲に限定され、しかもモスクワから辺境に至る全範囲において3年間の内戦を闘うことを余儀なくされた。このことが意味しているのは、1921年に至るまで、まさしくネップに至るまで、プロレタリア独裁を全国的規模で樹立するための闘争が遂行されていたということである。エセ・マルクス主義的俗物たちの意見によれば、独裁はネップの開始とともに消滅したとされているので、それは結局、一度も存在しなかったということになる。

 これらの紳士諸君にあっては、プロレタリア独裁とは単に無形の概念、理想的規範であって、わが罪深い地上では実現されないものである。この種の「理論家たち」が、独裁という言葉そのものは完全には拒否しないとしても、プロレタリア独裁とブルジョア民主主義との非和解的な矛盾をぼかそうとするのも、無理はないのである。

 政治的観点からではなく、実験室的観点からしてきわめて特徴的なのは、「共産主義的民主主義者」(スヴァーリン(2)その他)のパリ地区支部である。この名称そのものがすでにマルクス主義からの決別を意味している。マルクスはその『ゴータ綱領批判』の中で社会民主主義という名前を拒否したが、それはこれが社会主義的革命闘争を民主主義の形式的統制のもとに置いているからであった。「共産主義的民主主義者」と「社会主義的民主主義者」すなわち社会民主主義者との間に原則的な相違が存在しないのは、まったく明らかである。

 社会主義と共産主義とを厳密に区別することはできない。運動としての、あるいは国家体制としての社会主義と共産主義が、階級闘争の現実の歩みや、歴史的過程の物質的諸条件に従うのではなく、「民主主義」という超社会的・超歴史的な抽象物、すなわち現実にはプロレタリア独裁に敵対するブルジョアジーのための自衛手段である「民主主義」に従属させられる時、ここから誤りが始まる。『ゴータ網領』の時代には、社会民主主義という言葉は健全な精神を持ったプロレタリア党にとって単に正しくない非科学的な名称であったにすぎないが、その後のブルジョア民主主義と「社会」民主主義の全歴史は、「民主主義的共産主義(?)」の旗を、直接的な階級的裏切りの旗に変えたのである

※原注 興味ある人は――もしそういう人がいればの話だが――「共産主義的(!)民主主義者」の「政綱」を読んでみるがよい。マルクス主義の基本からして、これ以上にいかさま的な文書は想像することさえ困難である。

 

   ボナパルティズム

 ウルバーンス(3)のような批判者は次のように言うであろう。実際にはまだブルジョア体制が復活しているわけではないが、もはや労働者国家は存在しない。現在のソヴィエト体制は、超階級的な、あるいは間階級的なボナパルティスト国家である、と。この議論とは以前すでに決着をつけてある。歴史的に見れば、ボナパルティズムとはブルジョア社会の危機の時代におけるブルジョアジーの政府であったし、今もそうである。2つのボナパルティズムを区別することができるし、区別しなければならない。一つは「進歩的」ボナパルティズムであって、これはブルジョア革命の純資本主義的な獲得物を打ち固める。もう一つは資本主義社会の衰退期のボナパルティズムであり、われわれの時代の痙攣的なボナパルティズムである(パーペン(4)=シュライヒャー(5)、ドルフース(6)、それにオランダのボナパルティスト候補のコリーン(7)、その他)。ボナパルティズムとは常に諸階級のあいだで政治的にバランスをとることを意味する。しかしそれがいかなる歴史的形態をとるにせよ、ボナパルティズムの下には同一の社会的土台が維持されている。ブルジョア的所有形態がそれである。ボナパルティストが諸階級の間を揺れ動いているからといって、あるいはボナパルティスト徒党が「超階級的」立場をとっているからといって、ボナパルティスト国家の非階級的性格という結論を引き出すとすれば、これ以上にばかげた話はないであろう。途方もないナンセンスである! ボナパルティズムは資本主義的支配のさまざまな形態の一つにすぎない。

 ウルバーンスが、ボナパルティズムの概念を拡張し、そこに現在のソヴィエト体制をも含めたいと望むのであれば、われわれはそのような拡大解釈を受け入れる用意がある。ただし一つの条件がある。ソヴィエト「ボナパルティズム」の社会的内容が必要な明確さをもって定義されるならば、である。ソヴィエト官僚の専制が、国内的および国際的な諸階級勢力のあいだでバランスをとるという基盤の上に形成されているということは、まったく明らかである。官僚的舵取りがスターリンの個人的なポピュリスト体制によって頂点に達しているかぎりにおいて、ソヴィエト・ボナパルティズムについて語ることは可能である。しかしながら、ボナパルト一族のそれにせよ、現在のその哀れむべき後継者のそれにせよ、ボナパルティズムはブルジョア体制を基礎として発展してきたし、現に発展しつつあるのに対し、ソヴィエト官僚のボナパルティズムのもとには、ソヴィエト体制という基盤が存在している。用語の新発明や歴史的アナロジーはあれこれの方法で分析のための便利な手段として役に立つ。しかしそれはソヴィエト国家の社会的性格を変えることはできない。

 

   「国家資本主義」

 ところでウルバーンスは最近になって新しい理論を作り上げた。ソヴィエトの経済構造は「国家資本主義」の一変種であるというのだ。ウルバーンスが政治的上部構造の領域における用語上の演習から経済的基盤の方へ降りたったということは「前進」ではある。しかしこの下降も、悲しいかな、彼には何の役にも立たなかった。

 国家資本主義は、ウルバーンスによれば、ブルジョア体制を自衛するための最新の形態である。イタリアやドイツ、アメリカなどの協同組合的「計画化」国家を見れば十分だ。大雑把な分類に慣れたウルバーンスはここにソ連も投げ込んでしまう。この点については後で述べるが、資本主義国家に関して言えば、ウルバーンスは現代における非常に重要な現象に接近している。独占資本主義はとっくの昔に生産手段の私的所有と民族国家の国境を乗り越えてしまった。しかしながら、労働者階級は、それ自身の組織によって手かせ足かせをはめられていたため、時機を失せず社会の生産力を資本主義のくびきから解き放つことができなかった。このことから、経済的・政治的痙攣の長引く時代が始まったのである。生産力が私的所有の障壁と民族国家の国境に激しくぶつかる。ブルジョアジーは自らの生産力の反乱を警察の棍棒で抑えることを余儀なくされている。これこそが「計画経済」と呼ばれているところのものである。資本主義的無政府状態を国家が統制し、秩序立てようとしているかぎりにおいて、それを条件つきで「国家資本主義」と呼んでもよい。

 しかし忘れてならないことは、そもそもマルクス主義者は国家資本主義という言葉で、ただ国家による独立した経営企業体を理解していたということである。改良主義者たちが、ますます多数の運輸、工業企業の自治体所有化ないし国有化という手段によって資本主義を克服することを夢想していた時、マルクス主義者はいつもこう反論していた。それは社会主義ではなく、国家資本主義である、と。しかしその後、この概念はより広い意味を獲得し、経済に対する国家介入のあらゆる形態に適用されるようになった。フランス人はこの意味で「エタティスム」という言葉を使っている。

 しかしウルバーンスは「国家資本主義」の産みの苦しみを説明するだけにとどまらず、これを自分流に評価する。そもそも彼の言うことを理解できるかぎりで言えば、彼は「国家資本主義」の体制を、トラストが個々ばらばらの企業よりも進歩的であるのと同じ意味で、社会の発展にとって必要であるばかりか、進歩的な段階でさえあると主張している。資本主義的計画化の評価に関するこの根本的な誤りだけですでに、いかなる方向性も台無しにするのに十分である。

 ところで、第1次世界大戦によって終止符を打たれた資本主義の発展期にあっては、さまざまな形態による国家化を進歩的な現象であるとみなすことが、すなわち国家資本主義が社会を前進させ、将来におけるプロレタリア独裁の経済的仕事を容易にすると考えることが、一定の政治的前提条件のもとでは可能であったのに対して、今日の「計画経済」は骨の髄まで反動的な段階であるとみなさなければならない。すなわち、国家資本主義は経済を全世界的な分業から引き離し、生産力を民族国家というプロクルステスの寝台に押し込め、ある分野の生産を人為的に圧縮し、同じく人為的に巨大な浪費によって別の分野を作り出そうとする。現在の国家の経済政策は――古い中国式[万里の長城のこと]の関税障壁に始まりヒトラーの「計画経済」下における機械の使用禁止というエピソードに至るまで――、国民経済を縮小させ、国際関係に混乱をもたらし、社会主義的計画化のために絶対に必要な金融制度を完全に破壊するという犠牲を払って、ようやく不安定な調整を確保している。現在の国家資本主義は将来の社会主義国家の仕事を準備したり容易にしたりするものではなく、反対に新たに巨大な困難を作り出している。プロレタリアートは権力獲得の一連の機会を逃した。それによって、政治においてはファシスト的野蛮のための、経済においては「国家資本主義」的破壊作業にとっての条件がつくり出された。プロレタリアートは権力を獲得したのち、その政治的怠慢を経済的に償なわなければならないであろう。

 

   ソ違の経済

 しかし本稿の範囲内でわれわれの関心を最も引くのは、ウルバーンスが「国家資本主義」という概念にソ連の経済をも含めようとしていることである。そのさい彼は――信じがたいことだが!――レーニンを引用している。この引用を説明しうる理由はたった一つしかない。毎月のごとく新しい理論を作り出している永遠の発明家たるウルバーンスには、自分が引用する書物を読む時問がないということである。たしかにレーニンは「国家資本主義」という用語を使用しているが、それはソヴィエト経済の全体を指しているのではなく、その特定の分野――外国の利権や混合企業や商社、そして部分的には国家の管理下にある農民の(主としてクラークの)協同組合――だけを指している。これらはすべて議論の余地なく資木主義の諸要素である。しかしそれらは国家によって統制されており、場合によっては国家の直接的参加という手段を通して混合企業として機能しているがゆえに、レーニンは条件つきで、あるいは彼自身の表現に従えば「括弧つきで」、これらの経済形態を「国家資本主義」と呼んだ。この用語が条件つきで使用されるのは、問題となっているのがブルジョア国家ではなくてプロレタリア国家だからであり、少なからざる重要性を持ったこの相違を強調するためにこそ引用符が用いられなければならなかったのである。しかしながら、プロレタリア国家が私的資本を許容し、それが一定の限界内ではあれ労働者を搾取することを許していたかぎりにおいて、それはその翼の下にブルジョア的諸関係を覆い隠していた。まさにこのように厳密に限定された意味で、「国家資本主義」について語ることができた。

 レーニンがこの用語そのものを使ったのはネップへの移行期においてであった。この時レーニンは、利権や「混合企業」(すなわち国家と私的資本の結合にもとづいた企業)が、ソヴィエト経済のもとで純然たる国家トラストやシンジケートと並んで主要な位置を占めることになると想定していた。国家資本主義的企業――すなわち利権その他――と対比して、レーニンはソヴィエト・トラストやソヴィエト・シンジケートを「首尾一貫した社会主義タイプの企業」と定義した。レーニンはその後のソヴィエト経済の発展、とくに工業の発展を、国家資本主義と純然たる国営企業との競争であると考えていた。

 ウルバーンスを魅惑したこの用語をレーニンがいかなる限界の中で使用したかは、今や明らかになったと思われる。「レーニン(!)ブント」の指導者の理論的破産を徹底して明らかにするために、なお次のことを指摘しておかなければならない。すなわち、レーニンの当初の予想に反して、利権も混合企業もソヴィエト経済の発展過程においてほとんど重要な役割を果たさなかったことである。今やこれら「国家資本主義」企業はそもそもまったく残っていない。他方、ネップの黎明期には運命があれほどかすんで見えたソヴィエト・トラストが、レーニン死後の数年間に巨大な発展を遂げた。こうして、レーニンの用語を良心的に、そして問題を理解した上で使用するとすれば、次のように言わなければならない。ソヴィエト経済の発展は完全に「国家資本主義」の段階を素通りし、「首尾一貫した社会主儀タイプ」の企業の水路に沿って進んだ、と。

 しかしながらここでも、起こりうべき誤解、今度はちょうど正反対の性格の誤解を取り除いておかなければならない。レーニンは自分の用語を正確に選んでいる。彼はトラストのことを、今日スターリニストが呼んでいるような社会主義企業とは呼ばず、「社会主義タイプ」の企業と呼んだ。用語上のこの徴妙な区別は、レーニンのペンにあっては、次のことを意味していた。トラストを社会主義的と呼びうるのは、そのタイプや傾向によってではなく、その本来の内容によって、すなわち農業が変革され、都市と農村の間の矛盾が根絶され、人類が人間的欲求のすべてを全面的に満たすことを学んだ後に、言いかえれば、国有化された工業と集団化された農業にもとづいて真の社会主義社会が形成されていく程度に応じてのみだ、ということである。レーニンは、この目標を達成するためには、2世代、3世代におよぶ継続的な活動が、しかも、国際的な革命の発展と不可分に結びついた活動が必要であることを理解していた。

 要約しよう。国家資本主義という言葉は、その厳密な意味においては、工業その他の企業をブルジョア国家が自らの裁量で運営すること、あるいは私的資本主義企業の活動にブルジョア国家が「調整的」介入を行なうことであると理解されなければならない。括弧つきの「国家資本主義」という言葉で、レーニンは、私的資本主義企業や、私的資本主義関係に対するプロレタリア国家の統制のことを想定していた。このいずれの定義も今日のソヴィエト経済に対してはいかなる側面から見てもあてはまらない。ソヴィエト「国家資本主義」という概念に、ウルバーンスがいかなる具体的な経済的内実をあてはめたのかは、今なおまったくの謎である。ありていに言えば、彼の最新の理論はその全体が読み間違えた引用にもとづいて立てられているのである。

 

   官僚制と支配階級

 しかしながら、ソヴィエト国家の「非プロレタリア的」性格に関しては、より巧妙でより慎重な、しかしけっしてより真面目ではないもう一つの理論が存在する。レオン・ブルム(8)の同僚でスヴァーリンの先生であるフランスの社会民主主義者ルシアン・ローラ(9)が小さな本を書いて、ソヴィエト社会はプロレタリア的でもブルジョア的でもなく、まったく新しいタイプの階級組織であるという見解を擁護している。その理由は、官僚がプロレタリアートを政治的に支配しているだけでなく、かつては数多くのブルジョアジーの手中に落ちていたあの剰余価値をむさぼり食うことによって経済的にもプロレタリアートを搾取しているからだというのだ。

 ローラはこの発見を『資本論』の重厚な諸定式で飾り立て、こうすることで彼の皮相で純粋に記述的な「社会学」に深遠さの外観を与えている。どうやらこの寄せ集め細工師は、自分の全理論が30年以上も前に、はるかに大きな熱気ときらめきをもってロシア系ポーランド人革命家マハイスキ(10)によって編み出されていたことを知らないようだ。マハイスキは、10月革命もスターリニスト官僚制も起こるはるか以前に、あらかじめ「プロレタリアートの独裁」を搾取官僚の管制高地にとっての足場であると定義していた点で、彼を通俗化したフランス人よりもはるかに優れていた。しかしマハイスキにしてもその理論を無からつくり出したわけではない。彼はただ、国家社会主義に対するアナーキスト的偏見を社会学的・経済学的に「深めた」にすぎない。ついでながらマハイスキもまたマルクスの諸定式を利用したが、そのやり方はローラよりもずっと一貫している。マハイスキによれば、『資本論』の著者はその再生産表式(第2巻)において、社会主義的インテリゲンツィア(官僚)によって簒奪される剰余価値部分をあらかじめ悪意を持って隠蔽したのだという。

 現在、この種の「理論」は――もっとも、搾取者マルクスの暴露なしにだが――、ミャスニコフ(11)よって擁護されている。彼によれば、ソヴィエト連邦におけるプロレタリアートの独裁は新しい階級、すなわち社会官僚の支配に取って代わられている。おそらくローラは自分の理論を直接ないし間接にまさにこのミャスニコフから借りてきたのであり、ただこれに衒学的な「学術的」表現を与えたにすぎない。完璧を期すために付け加えておかなければならないのは、ローラがローザ・ルクセンブルクの誤りのすべてを(しかもただ誤りだけを)、ローザ自身が後で放棄したものまでも含めて自らのものとしていることである。

 ところで「理論」そのものを少し立ち入って検討してみよう。階級とはマルクス主義者にとっては、この上なく重要な、しかも科学的に限定された概念である。階級は、国民所得の分配への参加のあり方のみならず、経済の構造全体におけるその独立した役割と、社会の経済的土台におけるその独立した基盤によって規定される。諸階級(封建領主、農民、小ブルジョアジー、資本家ブルジョアジー、プロレタリアート)はその独自の所有形態を作り上げる。官僚はこうした社会的特性をすべて欠いている。官僚は生産・分配過程において独立した地位を有していない。官僚は所有の独立した基盤を持っていない。官僚の諸機能は基本的には階級支配の政治的技術に関係している。官僚制の存在は、その形態と比重のあらゆる多様性にもかかわらず、すべての階級支配に見られる特徴である。官僚の力は反映的性格を有している。官僚は経済的支配階級と不可分に結びついており、この階級の社会的基盤によって養われ、それとともに生き、それとともに没落する。

 

   階級的搾取と社会的寄生

 ローラはまた次のようにも述べている。「官僚が必要な政治的、経済的、文化的職務を遂行しているかぎりにおいて、その労働に対して支払いを受けることには自分も反対はしない」。問題はそれが国民所得のけた外れに大きな部分を野放図に収奪していることであり、まさにこの意味において、それは「搾取階級」である、というわけである。反駁の余地のない事実にもとづいたこうした主張も、しかしながら、官僚の社会的特質を変えるものではない。

 官僚とは常に、いかなる社会体制のもとにあっても、剰余価値の少なからざる部分を食い尽くすものである。たとえば、イタリアやドイツのファシストのイナゴどもが国民所得のどのくらいをむさぼり食っているかを計算してみるのも、興味なくはないであろう! しかしこの事実は、それ自身の重要性はけっして小さいものではないが、ファシスト官僚を独立した支配階級に変えるにはおよそ不十分である。ファシスト官僚はブルジョアジーの番頭である。確かにこの番頭は主人の首にまたがり、時にその口からご馳走をひったくリ、さらにはその禿げ頭に唾を吐きかける。言ってみれば、これ以上に困った番頭はいない! だがそれでも、それは単なる番頭なのである。ブルジョアジーは、この番頭がいなければ間違いなく自らと自らの社会体制が立ちゆかないがゆえに、これにがまんしているのである。

 上述したことは、必要な変更を加えれば(mutatis mutandis)、スターリニスト官僚にもあてはまる。それは国民所得の大きな部分を飲み込み、浪費し、着服している。官僚による統治はプロレタリアートにはなはだ高くついている。官僚は、ソヴィエト社会において途方もなく特権的な地位にあり、それは単に政治的・行政的権利の点だけでなく、巨大な物質的優位性という点でもそうである。しかしそれでも、最も広い住宅も、最も美味なステーキも、あるいはロールスロイスでさえも、官僚を独立した支配階級に変えるには十分ではない。

 もちろん社会主義社会にあっては、不平等が、しかもあのように極端な不平等が存在することは絶対にありえない。しかし公式・半公式の嘘とは反対に、現在のソヴィエト体制は社会主義ではなく、過渡的体制なのである。それは今なおその内部に資本主義の恐るべき遺産を、とりわけ社会的不平等を、それも単に官僚層とプロレタリアートの間の不平等だけでなく、官僚層内部、プロレタリアート内部における不平等を抱え込んでいる。ある一定の段階では、そして一定の範囲内においては、不平等は社会主義的進歩のためのブルジョア的道具ではある。賃金格差やボーナスその他が相互競争のための刺激として使用される。

 現在の体制の過渡的な性格はこのような不平等を説明するものではあるが、それは無統制の上層官僚が横取りしているあの恐るべき、公然ないし秘密の諸特権をいささかでも正当化するものではない。左翼反対派は、ウルバーンスやローラ、スヴァーリン、シモーヌ・ヴェイユ(12)※その他の人たちによって明らかにされるずっと以前から、官僚主義――そしてそのあらゆる現象――がソヴィエト社会の道徳的な連結部をがたがたにして、大衆の当然の先鋭な不満をひき起こし、巨大な危機を準備しつつあると宣言してきた。それにもかかわらず、官僚の諸特権はそれだけではソヴィエト社会の土台を変化させるものではない。なぜなら官僚は、何らかの特別な所有関係から、すなわち「階級」としての独自の所有関係からその諸特権を引き出しているのではなく、10月革命によって作り出され、基本的にはプロレタリアートの独裁に合致している所有関係から引き出しているからである。

※原注 プロレタリアート独裁の「失敗に終わった」実験にすっかり絶望してしまったシモーヌ・ヴェイユは、社会から自分の人格を守るという新しい使命のうちに慰めを見出している。安っぽい無政府主義的な興奮によって活気を与えられた古臭い自由主義のきまり文句だ! そして、このシモーヌ・ヴェイユが尊大にもわれわれの「幻想」について語っているのである。彼女とその同類たちにとって、最も反動的な下層中産階級的偏見から解放されるためには、長年にわたる粘り強い仕事が必要なようだ。言うまでもなく、彼女のこの新しい見解は『プロレタリア革命』という何とも皮肉な名前を持った機関誌の中に安息所を見出している。革命的憂鬱家たち、回想という資本からの利子で生活している政治的年金生活者、そしてたぶん革命の側につく――それが将来実現した後のことであるが――であろうこけおどしの屁理屈屋たちにとって、ルーゾン(13)のこの雑誌ほどふさわしいものはない。

 わかりやすく言えば、官僚が人民に対して略奪を働いている(これはどのような官僚もさまざまな手段を使ってやっていることである)かぎり、問題になっているのは科学的な意味での階級的搾取ではなく、いかに大規模であれ社会的寄生なのである。中世にあっては僧侶は階級ないし身分であった。その支配が士地所有と強制労働の一定のシステムに依拠するものだったからである。今日の教会は搾取階級ではなく、寄生組織である。

 実際、アメリカの聖職者たちを特殊な支配階級だと言うとすれば、それはばかげている。しかしそれにもかかわらず、さまざまの宗派や流派の坊主たちがアメリカ合衆国で剰余価値の大きな部分をむさぼり食っていることは疑いない。寄生というその特徴において、官僚も僧侶も、ルンペン・プロレタリアートと同じようなものであり、周知のようにこの後者も独立した「階級」をなすものではない。

 

   2つの展望

 問題は、それをその静的断面においてでなく動的断面においてとらえるならば、いっそう浮き彫りになる。ソヴィエト官僚は国民所得の巨大な部分を非生産的に浪費しながらも、同時にその機能そのものからして国の経済的・文化的成長に関心を持つ。国民所得が大きくなればなるほど、それだけ諸特権の原資も豊かになるからである。同時に、ソヴィエト国家の社会的土台ゆえに、勤労大衆の経済的・文化的向上は、官僚支配の基礎そのものを掘り崩さずにはおかない。こうした順調な歴史的パターンを踏む場合には、官僚が社会主義国家の道具――悪質な高くつく道具――にすぎないことが明らかとなる。

 しかしこう反論されるかもしれない。国民所得中のますます大きな部分を浪費して経済の基本的均衡を破壊することによって官僚は国の経済的・文化的発展を遅らせるているのではないか、と。まったくその通りだ! 官僚主義がこれ以上妨げられることなく発展してゆけば、経済的・文化的成長の停止に必然的に導かれ、恐るべき社会的危機が生じ社会全体が後方に引き戻されるだろう。しかしこれは、プロレタリア独裁の崩壊にとどまらず、それと同時に官僚制支配の終焉をも意味する。その場合、労働者国家に代わって登場するのは、「社会官僚主義的」諸関係ではなく資本主義的諸関係であろう。

 われわれは、長期の展望にもとづいて問題を設定することによって、ソ連の階級的本質をめぐる論争において問題を解明する最終的な手がかりを得ることができると期待している。ソヴィエト体制が今後いっそう発展していく場合を取り上げようが、反対にそれが崩壊する場合を取り上げようが、いずれの場合にも官僚は独立した階級ではなく、プロレタリアートにできた瘤(こぶ)である。腫瘍は巨大な規模に成長して生体組織を殺してしまうことさえあるが、それは絶対に独立した器官となることはできない。

 最後に、完全に問題が明白になるよう、こうつけ加えよう。今日のソ連においてマルクス主義政党が権力を握ったならば、それは政治体制全体を刷新し、カードを切りなおし、官僚を粛正してそれを大衆の統制下に置き、行政活動の全体を変革し、経済指導に関して一連の重大な改革を実行するであろう。しかしそれはいかなる場合といえども、所有関係における変革、すなわち新しい社会革命を断行する必要はないであろう

 

   反革命のありうる道

 官僚は支配階級ではない。しかし官僚体制のこれ以上の発展は新しい支配階級が台頭する事態をまねきかねない。ただしそれは堕落を通じて有機的にではなく、反革命を通じてである。われわれはスターリニスト機構のことを、まさしくそれが果たしている二重の役割のゆえに中間主義的と呼ぶ。もはやマルクス主義指導部が存在せず、いまだ存在していない今日、スターリニスト官僚はそれ自身の方法でプロレタリア独裁を防衛している。しかしその方法は明日、敵の勝利を容易にするといった類のものである。ソ連におけるスターリニズムのこの二重の役割を理解しない者は、およそ何も埋解しない者である。

 社会主義社会においては、人は国家権力なしに生活するのと同じく、党なしに生活するだろう。しかし、過渡期においては、政治的上部構造が決定的な役割を果たす。プロレタリアート独裁の発展と安定は、党が独立した前衛として指導的役割を果たし続け、プロレタリアートが労働組合のシステムを通じて団結し、勤労大衆がソヴィエト制度を通じて国家と密接に結びつき、最後に労働者国家がインターナショナルを通じて世界プロレタリアートと戦闘的統一を維持していることを前提とする。ところが官僚は、党も労働組合も、ソヴィエトもコミンテルンもすべて圧殺してしまった。プロレタリア体制の変質を引き起こした罪のきわめて巨大な一部が、犯罪と裏切りにまみれた国際社会民主主義に帰することは、ここで説明するまでもない。ちなみに、ローラ氏はこの国際社会民主主義に属している

※原注 この予言者はロシアのボリシェヴィキ=レーニン主義者を革命的決断力を欠いていると非難している。オーストリア・マルクス主義者ばりに、革命と反革命とを混同し、ブルジョア民主主義への復帰とプロレタリア独裁の維持とを混同しながら、ローラはラコフスキーに革命的行動に関する説教を垂れる。この同じジェントルマンがことのついでにレーニンを「凡庸な理論家」と宣言する。それもむべなるかな! 最も複雑な理論的結論を最も単純な表現で定式化したレーニンには、簿っぺらで平板な一般論に密教的外観を与えるこけおどしの俗物を威圧することは不可能である。こういう名刺を作るようお勧めする。「ルシアン・ローラ。副業、ロシアの…プロレタリア革命に関するとっておきの理論家にして戦略家。本職、レオン・ブルムの顧問」。少し長いが正確な説明である。この「理論家」が青年たちの間で人気があるという。可哀想な青年たち!

 しかし、歴史的責任の実際の分担割合がどうであれ、結果が変わることはない。党とソヴィエトと労働組合の圧殺はプロレタリアートの政治的原子化をもたらした。社会的対立は政治的に克服されるのではなく、行政的に押さえ込まれる。それは圧力を高め、ついにはそれを正常に解決する政治的手段を失わせてしまう。外からのものであれ内からのものであれ、社会的衝撃の最初の一撃で、原子化されたソヴィエト社会は内戦に投げ込まれるであろう。国家と経済に対する統制力を失っている労働者は、自衛の武器として大衆ストライキに訴えるかもしれない。独裁の規律が破壊される。労働者の圧力と経済的困難に促迫されて、各トラストは計画原理を放棄し、相互に競争することを余儀なくされるだろう。支配体制の動揺と解体はもちろん、農村にも荒々しく混沌とした反響を呼び起こし、その動揺は不可避的に軍隊内部に持ち込まれるであろう。社会主義国家は崩壊し、資本主義体制が、より正確には資本主義的カオスが到来するだろう。

 言うまでもなく、スターリニストの新聞はわれわれのこの警告的分析を反革命的予言として、あるいはトロツキストの「願望」として引用するであろう。この手の売文屋に対しては、ずっと前からわれわれは静かな軽蔑の念以外の感情を知らない。われわれの考えでは、状況は危険ではあるが、けっして絶望的ではない。いずれにせよ、最大の革命的陣地が――戦闘を交える前に、戦闘もなしに――失われたなどと宣告することは、恥ずべき臆病さであり、直接的な裏切り行為であろう。

 

   「平和的」に官僚を取り除くことができるか?

 官僚がその手に全権力とそれへのあらゆる回路を集中しているというのが本当だとすれば――そしてそれは本当である――、少なからず重要な問題が生じてくる。ソヴィエト国家の再編成はどうすれば可能なのか? この課題は平和的手段によって可能なのか? 

 何よりもまず、不変の公理として次のことを明らかにしておかなければならない。すなわち、この課題の解決は革命によってのみ可能だということである。ソ連内部において、古い党の健全な分子と青年たちの中から革命党をつくり出すことが根本的な歴史的課題である。この課題がいかなる状況下で達成可能なのかについては後で検討しよう。今は、このような党がすでに存在するものと仮定する。それはどのような方法によって権力を握ることができるだろうか? 

 早くも1927年にスターリンは反対派に向かってこう言った。「現在の支配グループを一掃することは内戦によってのみ可能である」。その本質においてボナパルティスト的なこの挑戦は、左翼反対派に対してだけではなく、全党に対して向けられたものであった。あらゆるテコをその手に集中した官僚が、プロレタリアートが頭をもたげることをもはや許さないと公然と宣言したのである。その後の事態の推移はこの挑戦に大きな重みを与えた。この数年間の経験をふまえれば、党大会やソヴィエト大会などの手段によってスターリニスト官僚を取り除くことができると考えるのは子供じみている。事実、ボリシェヴィキ党の最後の党大会は第12回党大会(1923年初め)であった。その後の大会はすべて官僚的パレードであった。このような党大会ですら、今日では放棄されている。支配徒党を排除するいかなる正常な「合憲的」手段も残されていない。権力をプロレタリア前衛の手に引き渡すことを官僚に強制することができるのは、よってのみである。

 ただちに売文屋どもが声をそろえてわめき始めるであろう。「トロツキスト」がカウツキーと同じようにプロレタリア独裁に対する武装蜂起を説いている、と。だが無視して先に進もう。新しいプロレタリア党にとって権力獲得の問題が実践的な問題として提起されるのは、それが自己の周囲に労働者階級の多数を結集しえた場合のみである。力関係のこうした根本的変化が生じる過程で、官僚はますます孤立してゆき、分解してゆく。すでに指摘したように、官僚の社会的な基盤は、プロレタリアートのうちに根ざしている。すなわち、たとえその積極的な支持ではないにせよ、少なくともその「受忍」のうちに根ざしている。プロレタリアートが行動に移れば、スターリニスト機構は宙に浮くだろう。彼らがなおかつ抵抗を試みるようであれば、彼らに対して内戦の手段ではなく、むしろ警察的な性格をもった手段を行使することが必要になろう。いずれにせよ問題となるのは、プロレタリアート独裁に対する武装蜂起ではなく、その独裁に発生した悪性腫瘍を除去することである。

 真の内戦が発生するとすれば、それはスターリニスト官僚と立ちあがったプロレタリアートとの間ではなく、プロレタリアートと反革命の能動的勢力との間で展開されるだろう。大衆を動員した2つの陣営の間で公然たる衝突が発生すれば、官僚が独立した役割を演じることなどまったく問題になりえない。その両翼はそれぞれバリケードの両側に分裂するだろう。その後の発展の運命はもちろん、闘争の帰結によって規定される。いずれにせよ、革命的陣営の勝利はプロレタリア党の指導がある場合のみ考えることができ、反革命に対する勝利は当然このプロレタリア党を権力に就けるだろう。

 

   ソ連における新しい党

 官僚主義によって掘りくずされているソヴィエト権力の崩壊の危険と、10月の遺産を救うことのできる新しい党の周囲にプロレタリアートが結集する時と、いずれが早くくるであろうか? こうした疑間に対するアプリオリの解答は存在しない。決定するのは闘争である。大規模な歴史的検証――それは戦争かもしれない――における力関係によって決定されるであろう。いずれにせよ次のことは明らかである。世界のプロレタリア運動がこれ以上衰退し、ファシスト支配がこれ以上拡大すれば、内的な力だけでソヴィエト権力を長期にわたって維持することは不可能である、と。ソヴィエト国家の真に抜本的な改革を唯一可能にする基本的条件は世界革命の勝利的発展である。

 西ヨーロッパでは、革命運動の再生は党なしでも可能であるが、その勝利は党の指導のもとでのみ可能である。社会革命の全時代を通じて、すなわち何十年にもわたって、国際的革命党が歴史的進歩のための基本的な手段であった。ウルバーンスは、「古い形態」が時代遅れとなり、何か「新しい」もの――いったいそれは何か?――が必要だと叫びたてているが、そのことによってただ混乱を――それも相当古い形態のそれ――を暴露しているにすぎない。「計画的」資本主義のもとにおける労働組合活動と、ファシズムと迫り来る戦争に対する闘争が、疑いもなく、あれこれの新しい闘争形態と新しいタイプの闘争組織を生み出すであろう。ブランドラー派のように非合法的労働組合に関する夢想にふけるのではなく、闘争の実際の歩みを注意深く追い、労働者自身のイニシアチブをとらえて、それを発展させ普遍化することが必要である。しかしこの仕事をやり遂げるためには、まず何よりも党が、すなわちプロレタリア前衛の政治的結集軸が必要である。ウルバーンスの立場は主観的である。彼は自分の「党」を暗礁に乗り上げさせて以来、党に幻滅するようになったのである。

 革新者たちの中にはこう主張する者がいる――われわれは「ずっと以前から」新しい党が必要だと言ってきた、今やついに「トロツキスト」もこのことを承認するにいたった、彼らはいずれソヴィエト連邦が労働者国家でないことも理解するようになるだろう、と。こうした人々は現実の歴史的過程を研究するよりも天文学的な「発見」に努めることに忙しい。早くも1921年にホルテル(14)派とドイツ「共産主義労働者党」が、コミンテルンは死んだと宣言した。その後もこうした宣言にはこと欠かない(ロリオ(15)、コルシュ(16)、スヴァーリン、その他)。しかしこうした「診断」からはまったく何ものも生まれてこなかった。なぜなら、それは、歴史的過程の客観的な要求とは無関係に、諸グループや諸個人の主観的な幻滅を反映したものにすぎなかったからである。これら騒々しい革新者たちが現在、傍観者にとどまっているのは、まさにこのためである

※原注 比較的最近になって社会民主主義から決別してきた諸組織や、独自の発展過程をたどった諸組織(オランダの革命的社会党(17)のように)、したがって当然にも自らの運命を衰退期のコミンテルンの運命と結びつけることを拒否した諸組織に対しては、上述してきたことはその本質そのものからして適用することはできない。これらの諸組織の中で最良のものは現在新しいインターナショナルの旗の下に立ちつつある。他の諸組織も明日にはそうなるだろう。

 事態の推移はあらかじめ定められた道筋に従うものではない。コミンテルンは大衆の――諸個人ではなく――眼前でファシズムに屈服することによって自滅した。しかし、コミンテルンの崩壊後も、ソヴィエト国家は、確かにその革命的威信は大きく損なわれたとはいえ、なお存続している。現実の発展過程によって与えられた事実をそのまま受けとめなければならない。シモーヌ・ヴェイユのようにかんしゃくを起こしたり口をとんがらせたりしてはならない。歴史に腹を立てたり、背を向けたりしてはならない。

 新しい党と新しいインターナショナルを建設するためには、まず何よりも今日的水準の上に立った信頼できる原理的な基礎が必要である。われわれは、ボリショヴィキ=レーニン主義者の理論的武器庫に不十分さや欠落部分があることについてはいかなる幻想も持っていない。しかしながら、その10年間におよぶ活動は、新しいインターナショナルを建設するための基本的な理論的・戦略的諸前提を準備してきた。新しい同盟者たちと手を携えて、われわれは、戦闘的批判精神にもとづき、これらの諸前提を発展させ具体化していくつもりである。

 

   第4インターナショナルとソ連

 ソ連において新しい党――実際には新しい諸条件のもとでよみがえるボリシェヴィキ党――の核となるのはボリシェヴィキ=レーニン主義者のグループであろう。ソヴィエトの公式新聞でさえこの数ヵ月間、われわれの支持者たちが勇敢にその活動を進めており、それが不成功に終っていないことを証言している。しかしこの点ではいかなる幻想もあってはならない。革命的国際主義の党が民族主義官僚の腐敗的影響から労働者を解放しうるのは、ただ国際的なプロレタリア前衛が闘争勢力として世界の舞台に再登場する場合だけである。

 帝国主義戦争の勃発以来、そして10月革命後はさらに発展した形で、ボリシェヴィキ党は世界の革命闘争において推進力としての役割を果たした。今日このような状況は完全に失われている。このことは公式の戯画化された党について言えるだけではない。ロシアのボリシェヴィキ=レーニン主義者が置かれている極度に困難な活動条件は、国際的な規模で指導的役割を演じる可能性を彼らから奪っている。それだけではない。ソ連における「左翼反対派」のグループが新しい党に発展することができるのは、新しいインターナショナルの創設と発展に成功した結果としてのみである。革命の重心は決定的に西ヨーロッパに移っている。ここでは党建設の直接的可能性が測りしれないほど大きい。

 この数年問の悲劇的な経験に影響されて、すべての国のプロレタリアートの内部に巨大な量の革命的要素が蓄積されつつあり、それらは明確な言葉と汚れのない旗を待っている。確かに、コミンテルンの痙攣は、世界のいたるところで労働者の新しい層を社会民主主義の方へ押しやった。しかし不安を掻き立てられた大衆のこのような流入こそが、改良主義にとっては致命的な危険となっている。それはあちこちでほころびを見せ、各分派に分かれ、いたるところで革命的な翼を突き出そうとしている。これが新しいインターナショナルのための直接的な政治的前提条件である。最初の礎石はすでに据えられている。4つの組織による原則的宣言(18)がそれである。

 さらなる成功を勝ちとるための条件は、ソヴィエト連邦の階級的性格をはじめとして世界情勢についての正しい評価を行なうことができるかどうかである。この点で新しいインターナショナルはその存在の第1日目から試練にさらされることになろう。それはソヴィエト国家の改革にとりかかる前に、ソヴィエト国家の防衛を引き受けなければならない。

 ソ連に対してその「非プロレタリア的」性格を理由としてむなしく手を振るような政治的傾向は何であれ、帝国主義の受動的道具となりかねない。そしてもちろん、われわれの観点からしても、最初の労働者国家が官僚によって弱められ、その内外の敵からの一致した攻撃にさらされて崩壊するという悲劇的な可能性をあらかじめ排除することはできない。しかしこうした起こりうる最悪の場合においてさえ、その後の革命闘争の発展において巨大な重要性を有する次のような問題が残されるだろう。この破局の責任はいったいどこにあるのか、という問題である。どんなわずかな罪も革命的国際主義者の上に振りかかるようなことがあってはならない。生死のかかわる危機の際には彼らは最後のバリケードに残って闘わなければならない。

 今日、ソ連における官僚的均衡が崩壊したならば、それはほぼ確実に反革命勢力に有利に働くであろう。しかし真に革命的なインターナショナルが存在するならば、スターリニスト体制の不可避的な危機は、ソ連を再生する可能性を切り開くものとなる。これがわれわれの基本路線である。

 クレムリンの外交政策は日々、世界のプロレタリアートに新しい打撃を与えている。大衆から遊離した外交官僚たちはスターリンの指導のもと、全世界の労働者の最も初歩的な革命的感情をも踏みにじり、何よりもソヴィエト連邦そのものに巨大な損害を与えている。しかしこうしたことはすべて予想されたことである。官僚の外交政策は国内政策を補完している。われわれはどちらに対しても闘うだろう。しかしわれわれはこの聞争を労働者国家の防衝という観点から遂行する。

 瓦解しつつあるコミンテルンの官僚たちは、さまざまな国で今なおソ連に対する忠誠を誓っている。こうした誓いの上に何かを作ろうとするのは許しがたいまでに愚かな行為であろう。こうした人々の大多数にとって、騒々しいソ連「防衛」の誓いは、確信の表明ではなく、単なる信仰告白なのである。彼らの仕事はプロレタリアート独裁のために闘うことではなく、スターリニスト官僚の足跡をぬぐいとることである(例えば『ユマニテ』を見よ)。危機の瞬間にあたって、バルビュス(19)化されたコミンテルンは、それがかつてヒトラーに対して示した抵抗よりも強力な支援をソヴィエト連邦に対して与えることはできないであろう。革命的国際主義者の場合は違う。10年にわたって官僚から汚名を着せられ迫害されてきたにもかかわらず、彼らは労働者に対してソヴィエト連邦の防衛を倦むことなく呼びかける。

 新しいインターナショナルが、しかもこれだけが労働者国家防衛の立場に立つことを、言葉ではなく行動でロシアの労働者に示す時が来れば、ソ連におけるボリシェヴィキ=レーニン主義者の状況は一昼夜のうちに大きく変化するだろう。スターリニスト官僚に対して新しいインターナショナルは、共通の敵に対する統一戦線を提起するであろう。そしてわれわれのインターナショナルが一個の勢力をなしているならば、官僚は危機の瞬間にこの統一戦線を回避することは不可能となろう。そうなれば長年にわたる嘘と中傷の外皮のうち何があとに残るだろうか? 

 スターリニスト官僚との統一戦線は、戦争に際してのものであっても、ブルジョア政党と社会民主主義政党との例に見られるような「神聖同盟」を意味するものではない。これらの政党は帝国主義戦争にあって、人民をだますのを容易にするために相互批判を中止する。われわれは違う。たとえ戦争に際してもわれわれは、真の革命戦争を指導する上でのその無能力を自己暴露するであろう官僚主義的中間主義に対する非和解的な批判を継続する。

 世界革命の問題は、ソヴィエト連邦の問題と同じく同一の簡潔な定式に要約される。すなわち、第4インターナショナル!

1933年10月1日

『反対派ブレティン』第36/37号

柘植書房刊『トロツキー著作集 1933-34』(上)

 

  訳注

(1)ラブストーン、ジェイ(1898-?)……アメリカ共産党の指導者、ブハーリン派。1929年に、モスクワの指令によって除名。ラブストーン・グループは、他の右翼反対派傾向と同じように、第2次世界大戦まで存在した。ラブストーン自身は、後にAFL・CIO会長ジョージ・ミーニーの冷戦問題国際関係顧問となった。

(2)スヴァーリン、ボリス(1893-1984)……ロシア出身のフランスの革命家。フランス共産党の創立者で、スターリンの最初の伝記作家の一人。1924年、トロツキーの『新路線』をフランス語に翻訳し、除名。1930年代にトロツキズムをも拒否。

(3)ウルバーンス、フーゴ(1892-1947)……ドイツの革命家。1924年以降、ドイツ共産党の指導者。1927年にマスロフ、フィッシャーらとともに除名され、レーニンブントを結成。後にこの組織は左翼反対派と合同。1933年、スウェーデンに亡命し、同地で死去。

(4)パーペン、フランツ・フォン(1879-1969)……ドイツのブルジョア政治家。プロイセンの土地貴族であるユンカーの代表で、カトリック中央党の指導者。1932年6月1日にヒンデンブルクによってドイツの首相に任命。7月20日にクーデターを強行し、プロイセンのブラウン社会民主党政府を解散させ、自らをプロイセン総督に指名。ドイツ宰相の地位は、1932年12月にシュライヒャー将軍が取って代わられ、1933年1月にヒトラー内閣の副首相になった。戦争中、パーペンはヒトラーに協力しつづける。

(5)シュライヒャー、クルト・フォン(1882-1934)……ドイツの将軍、政治家。パーペン政府の国防大臣をつとめ、1932年12月2日にヒンデンブルクによって首相に指名(ワイマール共和国最後の首相)。1933年1月末、首相の座をヒトラーに取って代わられる。ナチスの「血の粛清」中の1934年6月30日に殺害される。

(6)ドルフース、エンゲルベルト(1892-1934)……オーストリアの反動政治家。キリスト教社会党員。1931年、農相。1932年、首相。右翼的護国団、農民同盟の支持を受け、ボナパルティスト的統治を行なう。1934年、ナチス党員に暗殺される。

(7)コリーン、ヘンドリク(1869-1944)……オランダの軍人出身の反動政治家。オランダ領東インドの将校を経て、国会議員から陸軍大臣に。1918年、反革命派の保守党を結成。1925〜26年、1932〜39年、首相に。反ナチスの立場をとり、1940年、ナチスによるオランダ占領と同意に捕虜となり、獄死。

(8)ブルム、レオン(1872-1950)……フランス社会党の指導者。ジョレスの影響で社会主義者となり、1902年に社会党入党。1920年、共産党との分裂後、社会党の再建と機関紙『ル・ポピュレール』の創刊に努力。1925年、社会党の党首に。1936〜37年、人民戦線政府の首班。社会改良政策をとったが、スペインの内戦に不干渉の姿勢をとる。第2次大戦中、ドイツとの敗北後、ヴィシー政府により逮捕。ドイツに送られる。戦後、第4共和制の臨時政府首相兼外相。

(9)ローラ、リュシアン(1898-1973)……オーストリアの革命家。オーストリア共産党の創設者の一人。コミンテルンの最良のジャーナリストの一人。1927年に離反し、パリに在住。

(10)マハイスキ、ヤン(1866/67-1926)……ロシア系ポーランド人のアナーキズム理論家で、いわゆるマハイスキ主義(社会主義をインテリゲンツィアの独裁とみなす立場)の創始者。1903年に亡命。1917年に帰国するも、10月革命後は政治活動から手を引く。『知的労働者』など。

(11)ミャスニコフ、ガヴリール(1889-1946)……ロシアの革命家、1906年以来の古参ボリシェヴィキ。1920年には労働者反対派のメンバー。党内民主主義を求める小冊子を非合法に配布したかどで1922年に除名。1923年、労働者グループを組織。1923年夏にストライキを組織しようとして、逮捕され、バクーに流刑。後にペルシャに亡命し、パリに移住。第2次大戦後、ソ連に帰還するも、逮捕され銃殺。

(12)ヴェイユ、シモーヌ(1909-1943)……フランスの哲学者、革命家。1920年代、共産主義者同盟の『プロレタリア革命』派に参加し、トロツキーと衝突。1936年、スペイン内戦に参加。1941年、カトリックに帰依。1942年、アメリカ、ついでイギリスに亡命。1943年、フランスの同胞に連帯して絶食し、命を落とす。

(13)ルーゾン、ロベール(1882-1976)……フランスのサンディカリスト。1920年代の一時期、フランス共産党に所属。1924年、ピエール・モナットとともに『プロレタリア革命』誌を創刊。労働組合問題をめぐってトロツキーと論争。

(14)ホルテル、ヘルマン(1864-1927)……オランダの革命家、作家、詩人。1907年、週刊誌『トリビューネ(演壇)』を創刊し、オランダ社会民主党内の左派指導者として活躍。第1次大戦中、国際主義の立場をとる(ただしトロツキーは『ナーシェ・スローヴォ』でこの一派の極左的立場を繰り返し批判している)。1918年、オランダ共産党を創設。ドイツ共産党の極左派に影響を与え、1919年秋にドイツ共産党から除名されて結成された共産主義労働者党の代弁者となる。議会への参加に反対し、レーニンの『共産主義の左翼小児病』で厳しく批判される。1922年以降、政治活動からしだいに離れる。

(15)ロリオ、フェルナン(1870-1930)……フランスの革命家、小学校教師。フランス社会党の左派の指導者の一人で、CGTの活動家。第1次大戦中はツィンメルワルト派。1920〜21年にフランス共産党の創設に積極的役割を果たし、フランス共産党の指導者となる。1921年、コミンテルン第3回世界大会に出席し、幹部会に選出。1920年代半ばにおけるコミンテルンとフランス共産党の官僚主義化に反対。1926年に離党。1927〜28年、左翼反対派の『流れに抗して』誌で活動。まもなく、政治活動から身を引く。モナットやロスメルのグループと友好関係を保持。

(16)コルシュ、カール(1889-1961)……ドイツの革命家。第1次大戦中は国際主義の立場。1919年、独立社会民主党に参加。1920年、ドイツ共産党差に入党。1924年、国会議員。1925年以降、党内反対派。1926年に除名。1928年以降、政治活動から身を引き、哲学研究に専念。ヒトラー勝利後の1933年に亡命。最初デンマーク、ついでイギリス、アメリカに移住。『社会主義と哲学』『カール・マルクス』など。

(17)オランダの革命的社会党(RSP)……ヘンドリク・スネーフリートが結成した革命政党。4者宣言に署名し、後に国際共産主義者同盟に加入。

(18)4つの組織による原則的宣言……トロツキー派の国際左翼反対派(ボリシェヴィキ=レーニン主義者)、オランダの革命的社会党と独立社会党、ドイツの社会主義労働者党による「4者宣言――新しいインターナショナルの必要性とその原則について」(1933年8月)のこと。翻訳は柘植書房『トロツキー著作集 1933-34』(上)に所収。

(19)バルビュス、アンリ(1873-1935)……フランスの詩人・作家。人道主義的立場からしだいに社会主義的立場に移行し、共産党に入党。雑誌『クラルテ』を創刊。1930年代にはスターリニズムの主要な文学的弁護者となった。1935年に訪ソ中に死去。

 


  

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